もどかしい恋で10のお題

※主に恋愛ルート1月~卒業式の間、友情エンド後の両片思いな華原×ヒトミの短編SSです。

01.どうして諦められない(ユウキイベント翌日:ヒトミ視点)
02.愛想のないふり(ユウキイベント翌日:華原視点)
03.気の利いた言葉も言えずに(修学旅行前)
04.いつまでもこのままじゃいられない
05.切なる願い(修学旅行後)
06.言えたらどんなに楽だろう(友情エンド後:6月)
07.その背中を奪いたくて(友情エンド後:11月)
08.嘘でもいいから
09.今すぐそばにいきたい
10.おれのものになって


(お題提供:シュガーロマンス様)



01.どうして諦められない

「おはよっ」
「……お、おはよう」
目の前に現れた彼の爽やかな笑顔と明るい声。それに返した私の声は、少し上擦ってしまっていた。

(…びっくりした)
早朝。階段を降りてマンションの入り口まで行くと、ばったりと華原君と鉢合わせをした。
正直、華原君と会うのはちょっと避けたかった。
…昨日、私は公園で華原君の知り合いらしき男の子と会った後、華原君の本当の顔を知った。
いつも明るくて、クラスの中心にいて誰にでも優しい華原君は実は演技で、本当は自分以外の人間は全然信じていないのだ、と。
冷たい表情と冷たい声。
あまりにも今までとは正反対の華原君にビックリして、とてもショックで。
昨夜は次に会ったらどんな顔をして華原君と向かい合えば良いのか一晩中悩み、結局答えを出せずに朝を迎えた。
このままでいても始まらない、と気持ちを切り替るために朝のジョギングに出たけれど、ここで鉢合わせてしまうなんて。
でも想像とは裏腹に、華原君はいつもと変わらない様子で話しかけてくれたものだだから、私は動揺を隠せないまま挨拶を返すのがやっとだった。

「桜川はこれからジョギング?」
「う、うん。お正月にやっぱりちょっと食べ過ぎちゃったかな~って。もうすぐ目標達成だし、頑張らないとね!」
「そっか、頑張ってるんだな。オレはこいつと散歩に行ってきた所」
「ヴォフッ」と、足元でシュタインが応える。シュタインへ目を向ける華原君の表情は、相変わらずとても優しい。
「ふふっ、散歩が楽しかったからシュタインご機嫌みたい」
(…シュタインには、華原君も心を許しているんだよね)
何だかシュタインが羨ましい。そんなことをぼんやり考えていると、「じゃあ、桜川も頑張って」と言って華原君はエレベーターへ向かおうとする。
思わず「ま、待って!」と慌てて華原君の上着の裾を引っ張り、引き止めた。
「…何?」
仕方なく、という風に振り向いた華原君の声は少し低くて、昨日のことを思い出しドクンと心臓が跳ね上がる。
「え、えっと…あの……」
――昨日の男の子と何があったの?
――何で華原君はそんないつも通りなの?
華原君に聞きたいことは色々あるはずなのに、全然言葉が出てこない。 …結局、私は言葉に詰まり、気まずさに俯いてしまう。
しばらくすると、華原君がはぁ、とため息を吐くのが聞こえて、思わず身体がビクリと震えた。

「あのさ、桜川。昨日のことは忘れてよ」
「…え?」
「何でもなかったんだ。オレもいつも通りにするからさ、桜川も今まで通りにしてよ」
「な、何でもなかったって…」
「いきなり二人してよそよそしくすると、周りが勘繰るかもしれないし、そうなると桜川だって困るだろ?オレも素を出すつもりはないしさ。その方が、お互いのためだと思わない?」
肯定を促すような華原君に、素直に「うん、そうだね」なんて簡単に頷けなくて。代わりの言葉を必死に探す。
ふと顔を上げると、目の前には私に笑いかけてくれている、『優しい華原君』。
…けれど、私はもうそれが本当の華原君じゃないことを知っている。知っているから。

「…で、でも。あれが本当の華原君だったんでしょう…?」
あの時見せた華原君の表情、その言葉。忘れるなんて、なかったことになんて、できるわけない。

「………」
「………」
しばらくお互いに沈黙する。それを破ったのは、華原君だった。
「…だとしてさ。桜川はどうしたいわけ?」
「え…」
「オレは本当は優しいふりしてみんなを騙していた酷い奴だったって言いふらす?…まぁ、誰も信じないと思うけど」
「そ、そんなことしないよ!」
反射的に首を振る。目の前の華原君は、昨日初めて見せた、冷たい目で私を見ていた。
「……どうだろう?いくら桜川でも、信じられないな」

…あぁ、そうか。
昨日の華原君の言葉を改めて思い知る。
(そうだよね、華原君は誰も信用していないって言ってたもんね。……私のことも)
今まで通りでいよう、というのは華原君なりの線引きで、つまり華原君は『これ以上踏み込んで来るな』と言いたいんだ。
考えてみれば、それは当然なこと。
華原君にとって私は、同じマンションに住んでいるだけの、ただの他人(クラスメート)でしかないのだから。
最近華原君と一緒にいられることが多いことに浮かれて、そんなことも考えていなかった。
そんな相手に踏み込んでこられるのは、不愉快なことでしかないはずで。
それを自覚した途端、涙が込み上げそうになる。それを必死に抑え、悟られないように笑顔を作った。
「わかった、今まで通りにするね!言いふらしたりもしないから。…ごめんね、華原君。引き止めちゃって」
「…あ、いや…別に」
「それじゃ、ひとっ走りしてくるよ!またね!」
くるっと華原君に背中を向け、一気に駆け出す。 ポロリ、と我慢仕切れなかった涙が零れたけれど、構わず走り続けた。


いつの間にか公園に辿り着き、ベンチに腰掛けた。
ペースを考えずに走ったせいで、息がかなり上がってしまった。普通なら凍えそうになる冷たい風が、今の熱くなった身体には心地良い。
だんだん身体が冷めていくと同時に、さっきまでぐちゃぐちゃになっていた頭の中もだんだんとクリアになっていく気がした。
…ふと、クリスマスの日のことを思い出す。
あれからまだ数日しか経っていないのに、既に懐かしい気持ちになる。
あの日、確かに華原君と距離が近付けたと思ったのに。今はあの時よりも距離が遠のいてしまったように思う。
そしてこれ以上近付くことを、華原君は許してくれない。

(…華原君は、人を信じないって言っていたけれど。このままで、本当に良いのかな?)

『…知ってる?あんたみたいなタイプってさ、独善的っていうんだよ』
昨日の華原君の言葉が頭を過る。
確かに私はお節介な方だと自分でも思う。華原君から見れば、そんな私は鬱陶しかったのかもしれない。
(私、華原君に嫌われてたのかな…)
…そう思いたくないけれど、もしそうだとしたら。それでも華原君はそんな私にもずっと優しくしてくれたんだ…ってことだよね。
昨年の夏休みの旅行や体育祭、文化祭、クリスマス。華原君と過ごした思い出が頭の中を駆け巡る。
(こうして思い出してみると、私、結構華原君と一緒に過ごしていたんだなぁ)
どれも私にとっては、楽しくて、ドキドキして、キラキラと輝く思い出ばかり。
今までに楽しい思い出はたくさんあるけど、昨年を特別に思えるのは、きっと…華原君がいたから。
華原君の言う通り、今まで演技で接してくれていたとしても。
それでも、これまでに華原君が見せた優しさが全部偽物だったとは、どうしても思えなかった。

…あぁ、ダメだ。やっぱり私は。
「諦められないよ…」
だってずっと華原君のことばかり考えてしまっていて。
今までの華原君は演技で、本当の華原君は全然違うと知らされたのに。
それでも、私の心は華原君のことが好きだと叫んでる。
例え華原君が私のことが嫌いでも、信じてもらえなくても。
今まで華原君が私を助けたり励ましてくれたように、私もいつか華原君の力になれないだろうか。
(…うん)
結論が見えてくると、気持ちが少し前向きになれた気がする。
そうだ、くよくよしてるなんて私らしくない。
私は私らしく、華原君に向き合っていこう。そして華原君が困っていたら、手を伸ばそう。
何せ私はお節介で、華原君のことが好きだから。
簡単には、諦めない。

「よっし!頑張ろう!」
そうと決めたら、まずは目の前にある目標に向かって頑張ろう。
私は勢いよくベンチから立ち上がり、中断していたジョギングを再開した。


02.愛想のないふり

「おはよっ」
オレが声ををかけると、相手は驚いた顔をして「お、おはよう」と返事をした。

シュタインとの朝の散歩から戻ると、マンションの入り口で桜川と鉢合わせした。
昨年ダイエットを始めてから、今はもう見慣れたジャージ姿。そういえばたまに早朝にジョギングをしていると聞いたことがある。
オレが挨拶をしたのが意外だったのか、桜川の表情からは、驚きと戸惑いの色がありありと見えた。
(昨日の今日だ。無理もない、か)
本当に桜川はわかりやすい。本人に気付かないよう、クスリと笑う。
昨日、ユウキと予期せぬ再会をした後、オレは桜川に問い詰められた。
ちょっと喧嘩をしただけだと誤魔化そうとしたけれど、それを見抜いた桜川は簡単に納得しなかった。
何も知らない癖に、お得意のお節介を焼く彼女にイラついたオレは、今まで誰にも見せなかった本性を曝してしまった。
今まで彼女が信じてきっていた『明るくて優しい華原君』はオレが付けていた仮面でしかなく、本当の『華原雅紀』は自分以外の人間なんて信用していない、冷たい人間だということを。
その時の桜川の心底驚いて、怯えたような表情が目に焼き付いている。
そんなオレが次の日普通に声を掛けるんだから、さすがの桜川も戸惑って当然だろう。

聞くと、やはり彼女はジョギングに行くつもりだったらしい。
「そっか、頑張ってるんだな。オレはこいつと散歩に行ってきた所」
シュタインの方へ視線を移すと、シュタインも返事をするように吠え返す。
「ふふ、散歩が楽しかったからシュタインご機嫌みたい」
シュタインのお陰で緊張が少し解れたのか、桜川の表情が和らいだ。
何だ、普通に笑えるじゃん、と柔らかく微笑む彼女に、何故か安堵する自分がいることに気付く。
(…何でほっとしているんだ?オレは)
同時に違和感のような、少し居心地の悪さを覚えた。
「じゃあ、桜川も頑張って」
その疑問に答えを見出せず、適当な言葉をかけてさっさと部屋に戻ろうと結論付ける。
「ま、待って!」
エレベーターへ向かおうとすると、予想外にも桜川に引き止められてしまい、仕方なく足を止め振り返った。

(まだ、何か言うつもりなのか?)
「…何?」
昨日言っただろ、いい加減にしてくれよ、と喉にまで出かかった言葉を飲み込む。
せっかく『優しい華原君』として接しようとしているのに。またその仮面が剥がれ落ちそうになる。
「え、えっと…あの……」
自分で呼び止めたのに、当の本人はあたふたとするばかりで、そうかと思えば今度は俯いて黙り込む始末だった。
そんな桜川に、さらにイライラが募っていく。
言いたいことがあるなら、さっさと言えばいいのに。面倒だけど、今みたいに黙りこんでしまわれるよりはまだマシだ。
いつもの『明るくて優しい華原雅紀』なら、「焦らなくていいから、落ち着いて」と声をかけ、相手が話し出すのをじっと待つだろう。
けれど、今はそうする気にはなれず、オレは軽く一呼吸つくと、桜川が話すのを待たずに口を開く。

「あのさ、桜川。昨日のことは忘れてよ」
「…え?」
「何でもなかったんだ。オレもいつも通りにするからさ、桜川も今まで通りにしてよ」
「な、何でもなかったって…」
桜川は思ったことが表に出やすいタイプだ。この調子でいられると、周囲…特に学校の奴らが何かあったと勘繰られる可能性はゼロではない。
そうなっては面倒だし、余計な詮索をされるのは極力避けたい。
「――その方が、お互いのためだと思わない?」
ただのクラスメートとして、たまに話をして、当たり障りなく過ごす。必要以上に近付かない。
オレも今までの『明るくて優しい華原君』として接するよ。
その方が、桜川も余計なことは考えなくて良いし、楽だろう?
促すように言うと、桜川はゆっくりと顔を上げ、視線が合う。真っ直ぐオレを捉えてくる彼女の目に、ドクン、と心臓が跳ね上がる。

「…で、でも。あれが本当の華原君だったんでしょう…?」
「………」
あぁ、もう。そんな目で見るな。
やっと口を開いたかと思ったら。何で「うん」と頷かない。
真っ直ぐに見つめてくる桜川の目は、まるで全てを見透かしているような気がして、それが余計に腹立たしくなる。

「…だとしてさ。桜川はどうしたいわけ?」
剥がれかけていた仮面は完全に取れ、さっきまで向けていた愛想笑いも優しさもない、冷たい自分が顔を出す。
困惑する桜川に、畳みかけるように続ける。
「オレは本当は優しいふりしてみんなを騙していた酷い奴だったって言いふらす?…まぁ、誰も信じないと思うけど」
「そ、そんなことしないよ!」
慌てて首を振る桜川を冷めた表情で見下ろす。
確かに。『桜川ヒトミ』という人間は、オレが知る限り、そんなことはしない性格だろう。
…でも。絶対に裏切らないなんて保障はどこにもない。
いくらお人好しな桜川と言えど、いつか…いざって時がその身に起これば、他者を裏切るだろう。……あいつのように。

「……どうだろう?いくら桜川でも信じられないな」
その瞬間、桜川の大きな瞳が見開いた。
―――マズい。
一瞬思考が止まり、焦りが生まれる。
しかしそう思ったのも束の間、桜川はニコッと笑いかけた。
「わかった、今まで通りにするね!言いふらしたりもしないから。…ごめんね、華原君。引き止めちゃって」
「…あ、いや…別に」
急な桜川の態度の変化に呆気に取られ、そんな返事しか返せない。
くるっと背を向け、桜川はジョギングのために走り出した。その時、涙が零れたのが見えた気がして、呼びかけようとする衝動を何とか抑える。
桜川の姿が見えなくなると、シュタインが「クゥン」と寂しそうな声を出しながらこちらを見上げてくる。
そんな訳がないのに、その目に何故か責められているような気がして、オレは思わず顔を逸らした。


部屋に戻り、そのままベッドに寝転がる。どっと疲労感が押し寄せるが、だからと言って寝る気にはとてもなれない。
それどころか、さっきから一つのことが頭の中を占領している。
(…泣くかと思った)
あの時、桜川が目を見開いた瞬間。泣き出しそうだった表情が、頭から離れない。
その後笑って見せていたけれど、無理をしているのは明らかだった。
…まぁ、当然と言えば当然、か。
それだけの態度を取ったのだから。友人と思っていた相手から急に手酷い態度を取られるのは、桜川でなくても相当ショックを受けるだろう。
寧ろ昨日あれだけ言った相手に対し、逃げなかった彼女が変わっているのではないだろうか。
そんな彼女をオレはまた突き放した。
桜川も、もうオレに近付かなくなるだろう。
同じマンションに住んでるしクラスメートだから完全に離れることはできないが、当たり障りのない会話をする程度の関係になるだけ。
正直、最近桜川と近付きすぎたように思う。誰も入れたことのない心の奥底へ、いつの間にか彼女が入り込み、侵食していくような感じさえしていた。
だから、昨日のことがなかったとしても、どこかで桜川から離れないといけなかったんだ。
「これで良かったよな…」

―――本当に?
頭の片隅で問いかけられる。それは紛れもない自分自身の声だった。
…良かったよ、当然だろ?
桜川のお節介さは最近鬱陶しいと思っていたし。おまけに無神経に踏み入ってほしくない所まで入ろうとするし。
寧ろ清々したくらいだ。例え彼女が傷ついたとしても、別に何とも思わない。
後悔なんて、していない。

―――じゃあ、何でずっと桜川のことを考えているんだよ。
「………」

…わからない。
何でさっきからこんな言い訳じみたことを考えているのか。何で桜川のこと頭から離れないのか。何でこんなに胸が痛むのか。
桜川を傷つけたことの罪悪感か、それとも別の感情なのか。
答えの出ない問いに、思考はどんどん泥沼に嵌っていく。
「クゥン…」
傍にいたシュタインが心配そうに鳴きながら、ベッドに飛び乗り寄り添ってきた。
「……シュタイン…」
妙に重く感じる身体を起こして、シュタインを抱きしめる。ペロッと顔を舐めてくるのは、どこか慰めてくれているようで。
(……こんなはずじゃなかったのにな)
腕の中にある温もりが、胸の痛みを少しだけ癒してくれるような気がした。


03.気の利いた言葉も言えずに

昼休憩、購買で昼食を買い教室へ戻る途中。何気なく廊下から窓の外を見ると、桜川の姿が目に入った。
人気のない裏庭に、桜川と、桜川を取り囲むように、女子が三人。
あの三人、うちのクラスじゃないよな…とぼんやり見ている内に、思い出す。
そうだ。彼女らは確か、颯大のファンクラブだとか言ってた奴らだ。

『ボクはいいって言ってるのにさ。しつこいんだよね、あの人達』
以前、彼女達に絡まれた後で颯大が愚痴っていたっけ。
マンションに引っ越してきた時から、颯大は桜川に懐いていた。部活だって、桜川がいるから演劇部を選んだと言うくらいだ。
だからよく二人で一緒にいる所を目にするが、それを気に食わない彼女達に呼び出されたって所だろう。どんな会話をしているのかは、考えるまでもなかった。
(…ったく、しょうがないな)
桜川の置かれた状況を理解すると、オレは教室へと進めていた足を止め、裏庭の方へと向かった。

オレや颯大達が桜川のマンションに越してきて以来、桜川は一部の女子から標的にされている、と耳にしたことがある。
実際に目にしたことはないが、思い出してみれば、夏休みの旅行なんて良い例だ。あの時桜川は「何でもない」と言っていたが、どんな会話をしていたのかは容易に想像がつく。
その後は皆でカードゲームをしたが、その時はもう気にしていないかのように、荻野達と一緒にヘラヘラと笑っていたっけ。能天気なのか、鈍いのか。
(……まあ、思っていたより鈍くはないのかもな)

裏庭に近付くにつれ、だんだん桜川達の声が聞こえてきた。近くの木陰からそっと覗くと、颯大のファン達を前に困り果てた顔をした桜川が見える。
「だから、そんなこと言われても困るよ…」
「何でよ⁉あなたと深水君は付き合ってないんでしょう⁉」
「なら、これ以上深水君にベタベタしないでちょうだい!前にも会長が言ったの忘れたの⁉」
「わ、忘れてはいないけど…」
「ないけど?何?」
彼女たちの剣幕に押され、桜川は小さく「うぅ…」と言葉を詰まらせる。
「だいたい、マンションのオーナーの娘って立場を利用して、深水君に近付いて、ちょっと調子に乗り過ぎじゃないの⁉」
その言葉にさすがに桜川もカチンときたらしく、困ったように下がっていた眉が徐々に上に吊り上がっていく。
「調子になんか…!だいたい、颯大クンはマンションのオーナーとか肩書きで人を判断する子じゃないって、あなた達もわかってるでしょう?そんな風に言うのは颯大クンに失礼だと思うけど!」
「なっ…言ったわね⁉」

ファンクラブなんて今まで興味はなかったけれど、いざ目の当たりにすると…なるほど。颯大が愚痴る訳だ。
…本当に、下らない。
桜川も、あんなのまともに相手にしなけりゃ良いのに。何で律義に呼び出しに応じて、適当な返事で終わらせるでもなく、余計面倒なことになるっていうのに真っ直ぐ答えて。
(…そうできないのが、桜川なのか)
このままじゃ桜川は当分解放されないだろうし、さっさと声を掛けに行くか。オレに気付いたら、きっと彼女達は面白いくらいあっさり逃げていくだろう。
そう結論付けると、一歩前に踏み出した。

「最近は華原君にも色目使ってさぁ。勘違いも甚だしいったらない!」
「っ!」
不意に自分の名前を出され、思わず足が止まる。
「なっ…!今は華原君は関係ないでしょう!?それに色目なんて使ってなんか…っ」
「そうやって慌てだすのが何よりの証拠だと思うけど」
「…っ」
「颯大君と華原君の優しさに甘えて、二人にベタベタしすぎてるとは思わないワケ?」
「だいたいあんたみたいな子が、颯大君達に相応しいと思ってるの?」
「……」
好き勝手に言い続ける彼女達に、桜川は黙ったまま、何も言い返さない。
ぎゅっと唇を噛み、その身体は小さく震えていた。

…何で黙ってるんだよ。さっきみたいに言い返してやれよ。
…何でオレはこんな所で突っ立ってるんだよ。早く行って、助けてやらないと。

「ちょっと!さっきから黙ってないで、何か言ったらどうなの!?」
「……思ってないよ」
ずっと黙っていた桜川が、静かに口を開いた。
「相応しいかどうかって言われたら、相応しいなんて言えないと思う。迷惑だってかけてるだろうし、イヤな思いをさせてるかもって思うこともあるよ。…でも、できるなら私はこれからも仲良くしたい」
「あなた…っ」
「何て図々しいのっ!」
「…だいたい、あなた達に指図される筋合いないし、図々しくても、私だって颯大クン達が好きだから、これからも変えるつもりはありません!」
「許せない…っ!」
ファンの内の一人が手を振り上げる。これから起こることを予期して、桜川は反射的にギュッと目を閉じた。

「おーい。桜川ー」
「…え!?か、華原君っ⁉」
オレに気が付いた桜川は、驚いたように目を見開く。桜川を囲んでいた三人も驚いた顔で振り返り、揃いも揃って同じ表情をしているから、つい吹き出したくなるのを何とか堪えた。
「こんな所にいたんだ。荻野達が探してたぜ?」
「華原君…。今の話聞こえてた…?」
三人の内の一人が恐る恐る尋ねる。
「え?話って?」
「き、聞いてないなら良いのっ。じゃあ…行こっ」
「う、うん…」
三人は足早にその場を去り、オレと桜川が取り残された。

「…華原君、ありがとう」
強張っていた桜川の表情が、徐々に和らいでいくのがわかる。
「ん?何が?」
「ううん、特に意味はないんだけど…言いたかっただけ」
「……。震えてた癖に。なに痩せ我慢してんの?」
「!やっぱり…聞こえてたの?」
「…まあ、ね」
このまま知らないフリをするつもりだったのに、何で言ってしまったのだろう。
多分、桜川が何でもなさそうに笑っているからだ。何でもないわけないはずのに。

「あのね、華原君。さっきのこと、颯大クンには内緒にしてほしいんだけど…」
「…何で?あいつら颯大のファンなんだから、颯大から注意してもらった方が効果があると思うけど」
「颯大クンのせいじゃないもの。私とあの子達の問題だし、こんなことで颯大クンに不安にさせたくないの」
…ほら、また善い人ぶっている。
何でこいつはそうなんだろう。人の好さそうなことを言って、そういう所がムカついて、イライラして。
「それに…あの子達の気持ちもちょっとだけわかるしね」
「え?」
そう言う桜川の表情は、どこか淋しそうに見えた。
「華原君や颯大クン達みたいな素敵な人達と一緒のマンションに住んで仲良くしてたら、ファンの子達からすればやっぱり面白くないもの」
「だからって、あんなのまともに相手にしなくても良いと思うけど。それで毎回桜川が傷付く必要はないんじゃない?」
オレの言葉に桜川はパチパチと目を瞬かせた後、クスリと笑いだした。
「な、何だよ、急に」
「…あ、ごめんね?華原君が心配してくれてるのが…その、嬉しくて」
「は?」
何だそれ。嬉しいって、何だよ。
桜川はたまに想像しないことを言い出す。それが余計理解できない。
「そんなの、別に。普通のことだろ」
「うん。…でも嬉しいから。華原君、助けに来てくれて、ありがとう」
そう微笑む桜川に、何も言えなくなって、胸の辺りがギュッと掴まれたように苦しくなる。
何故だろう。最近、桜川と向き合うと調子が狂う。
今までなら何か適当に慰めの言葉をかけられたはずなのに、今は何も浮かばなくて、気の利いた言葉一つ言えやしない。

ふと腕時計を見た桜川が、「あっ!」と大きな声を発した。
「もうこんな時間!早く教室に戻らないと、お昼食べる時間なくなっちゃう!」
さっきまで怖くて震えていたくせに、食事のことが出てくる所が桜川らしいと言うべきか。
行こう?と、促した後、桜川は歩き出し、オレもそれに続く。
「そういえば、もうすぐ修学旅行だね」
「ん?ああ、そうだな」
「華原君、迷惑じゃない?その…スノボー教えてくれるって言ったけど」
「別に?オレが良いよって言ってるんだからさ、それって信用できない?」
「そうじゃないけど…でも…」
言いにくそうに、桜川は口ごもらせる。
本来のオレを知っているだけに、あの時は断れなくて渋々了承したのではないか。大方そんなことを考えているのだろう。

『迷惑だってかけてるだろうし、イヤな思いをさせてるかもって思うこともあるよ』
ふいに、さっき颯大のファン達に言った桜川の言葉が頭の奥で響いた。

「……迷惑じゃないよ」
「え?」
「今までだって、迷惑とかそんな風に思ったことないから」
「華原君…」
じっとこちらを見つめる桜川の視線に向き合えなくて、顔を逸らす。
…何を言ってるんだろう、オレ。
桜川がファン達に言った言葉と、今の桜川の態度が重なって。それが何だかイヤで我慢できなくて、気付けば口走っていた。
「…って、颯大だってそう言うと思うぜ?」
誤魔化すように付け加えた言葉に、
「…うん。ありがとう」
と微笑む桜川がどことなく淋しそうに見えたのは、気のせいだろうか。
「あ、そうだ。スキーウェアも買わないとな~、今のはサイズ合わないし」
いや、きっと気のせいだろう。桜川の明るい声に、そう自分を納得させる。
「じゃあ、今日の帰りに一緒に見に行く?」
「え、良いの?」
「ああ。オレも丁度買い物したいと思ってたし」
「ありがとう、華原君」
今度は満面の笑顔を浮かべる桜川に、ホッとした自分がいた。

これで良い。
『明るく優しい華原雅紀』を崩さずに、当たり障りなくこれからも接すれば良い。
これからも、ずっと。
そう思っているのに、そうしないといけないのに、それだけでは足りないと心の奥で主張する自分がいる。
その声に気付かないフリをして、オレは桜川に笑い返した。


05.切なる願い

「ヒトミー、お昼食べよー」
「うんっ!」
待ちに待った昼休憩。お弁当を持って、優ちゃんと一緒に梨恵ちゃんの席へ集合する。
席に座って、お弁当の蓋を開ける。豆腐のハンバーグ、野菜の煮物、ほうれん草のお浸しに卵焼き。ダイエットのためカロリーを考えつつも、彩りのあるおいしそうなおかずが顔を覗かせた。
「おぉっ、相変わらずヒトミのお弁当はおいしそうだね〜」
梨恵ちゃんの言葉に、優ちゃんもうんうんと頷く。
「彩りもきれいだよね。人参もお花の形で可愛いし。ヒトミって本当料理が上手だよね」
「えへへ、そんなこと…あるかなぁ?なーんてね」
本当は、今日のお弁当はお兄ちゃんが作ってくれたんだよね。今日からお父さんと一緒に出張で三日間いないからって、いつも以上に気合いを入れてくれたみたい。
「本当は、作ったのはお兄ちゃんなんだけどね」と続けようとした言葉は、後ろからかけられた声に遮られてしまった。

「へえ〜、本当にうまそうだな」
「!!」
振り返ると、背後から華原君が私のお弁当を覗き込んでいた。
「かっ、華原君!」
「あ、華原君は売店に行ってきたの?」
「ほんとだ。そのパンおいしいよね〜」
梨恵ちゃんと優ちゃんの言う通り、華原君の手には、さっき買ってきたらしい購買の袋が提げられていた。
「ああ。オレ、料理は全然しないからさ。どうしてもコンビニか購買になっちゃうんだよね。少しは桜川を見習わないとな」
にこっと笑いかける華原君に、私は曖昧に笑った。
一昨日の修学旅行の一件から、華原君に対してどう接したら良いのかわからない自分がいる。
もしかすると、華原君もそうなのかもしれない。あれから華原君はいつもと変わらず話しかけてくれるけど、それだけで。
私と華原君の間には、何となく気まずいような、微妙な距離があるように感じた。
「そんなことないよ。本当はね、今日のお弁当はお兄ちゃんが作ってくれてーーー…」
言いかけて、ふと華原君がこっちをじっと見つめていることに気付く。
「……?」
どうしたんだろう…華原君。私の顔に何か付いてるのかな?
っていうか、ちょっと、近くない…!?
ただでさえ整っている華原君の顔が至近距離にあって、まじまじと見つめられると、嫌でも顔が熱を帯びていくのがわかる。
「…桜川」
「は、はいっ⁉」
「あのさ、…体調とか、平気?」
ギクッと、心臓が跳ね上がる。それを何とか表情に出ないように意識して、私は笑顔を浮かべて見せた。
「え?うん、大丈夫だよ?」
「…本当に?」
「…ほ、本当だよ。どうして?」
「……いや、それなら良いんだ。じゃあな」
そう言うと、華原君はいつも一緒にいる男子のグループへと行ってしまった。
私達三人は、目を丸くして顔を見合わせる。
「何だったんだろうね、華原君」
「…さ、さあ?それよりほら、二人とも、お弁当食べよ!」

(何で華原君、気付いたんだろう。気をつけてたつもりだったんだけどなぁ)
華原君の言う通り、本当は、朝から少し身体がだるいような感覚があった。
でも、そこまでひどいわけじゃないし、それに何よりも私が体調が悪いなんて言えば、お兄ちゃんが大騒ぎするだろうから。下手をすると出張を取りやめかねない。
今回の出張はお得意先へ大事な取引のために行くんだって言っていたし、余計な心配をさせたくなかった。
(…でも、ちょっとしんどくなってきたかも……)
せっかくお兄ちゃんが作ってくれたお弁当も、体調のせいかいつもより味気なく感じた。
でも、あとは午後の授業だけだし…終わったらすぐに帰って、薬を飲んで休もう。
……大丈夫。
身体の丈夫さと体力には自信があるし。帰りまであと少しだけ。
大丈夫、大丈夫。
こんなの全然、大したことなんてないんだから。

そう前向きに考えていたのだけれど、午後の授業に入ってからそれは一転した。
(……頭が痛い…)
ズキズキと重い痛みが頭に響く。身体も妙に熱くて、昼間よりも気怠さが増してきた気がする。
…おかしいな。休憩の時はそんなにひどくなかったのに。
こんなことなら、華原君が声を掛けてくれた時に、素直に「うん」と言えば良かったかも…と、今更後悔する。
この授業の後、あと一限あるのに、それまで持つだろうか。
(ううん、頑張らなきゃ…!)
ああでも、やっぱりかなりしんどいかも…。授業が終わったら、一旦保健室に行った方が良いかもしれない。
「じゃあ、問三を前で解いてもらおうか。…桜川」
「ヒトミ、ヒトミ。当てられてるよ」
「…はっ、はいっ!」
後ろの席の優ちゃんに突かれて、私は慌てて立ち上がる。
「ここ、問三ね」
「…うん。ありがと、優ちゃん」
そうは言っても、頭は全然働かなくて、教科書の問題文も頭に入ってこない。
(…でも、解かないと)
とりあえず、前に出てから考えよう。
やけに重い足取りで、ふらつかないように気を付けながら黒板へと向かう。
「……あ」
急にグラリと視界が揺れた。
膝に力が入らなくなり、そのままその場に崩れ落ちてしまう。
その瞬間、クラスが一斉に騒めきたった。
「ヒ、ヒトミ!?」
「桜川!おい、大丈夫か!?」

…どうしよう。早く立ち上がらなきゃ。
そう思うのに、足は思うように力が入らなくて、立てなくて。気持ちばかりが焦っていく。
身体は熱くて、息をするのも苦しくなってきた感覚に陥る。
ああ、ダメだ。どうしよう、どうしよう。

「桜川。…大丈夫?」
耳元で囁かれるのは、とても耳に馴染んだ優しい声。
いつの間にか、傍に華原君がいてくれて、私の肩を支えてくれていた。
「華原君…?」
華原君が、私の額にそっと手を当てる。華原君の手は少し冷たくて、それが妙に心地よかった。
私の額に触れた途端、華原君は険しい表情になり、「ほら、やっぱり」と呟いた。
「桜川、熱があるじゃん。…だから聞いたのに」
そう、私にしか聞こえないような小さな声で言う。
「先生。桜川は熱があるみたいなので、保健室へ連れて行きます」
「…あ、ああ、わかった。頼んだぞ、華原」
「桜川。立てる?」
「……うん」
華原君に支えられながら、何とか立ち上がる。
…うぅぅ。さっきから、周り…特に女子達の視線が突き刺さるように痛い。
でも不思議なことに、さっきはあんなにパニックになっていたのに、華原君が声を掛けてくれた瞬間、何だかとても安心して、今の私の心は嘘のように落ち着いていた。

「38度7分…まあ、風邪だな。修学旅行の疲れが出たんだろうよ」
体温計に表示された数字を眺めながら、若月先生は軽く溜息をついた。
「そうですか…」
「よくもまあ、こんな高熱出して授業を受ける気になんてなれたなぁ」
「…あはは」
熱のせいか、若月先生の小言にも、力なく笑って返すことしかできない。その隣で、こちらを見つめる華原君の視線がちょっと痛かった。
「…桜川さ、昼休みの時、何で大丈夫なんて嘘言ったの?」
「えーっと…その…、このくらいなら平気かなーって思って」
素直に答えると、華原君は、はあーっと大きくため息を吐いた。
「全然平気じゃないじゃん。こんなフラフラでさ」
「…ごめんなさい」
華原君の声は少し怒っているようで、私はしゅんと小さな声で謝るしかなかった。
「まあまあ華原。その位にしといてやれ。桜川はそのままベッドで寝ること」
「はーい…」
若月先生に言われるまま、大人しく真っ白なベッドへと横になった。
「はー……鷹士のやつは三日間出張でいないんだったよな。肝心な時にいなくてどーすんだよ、ったく」
呟きながら、若月先生はガシガシと頭を掻き上げた。
「仕方ねえな…華原。授業終わったら、桜川の鞄持って来てくれないか?オレ様が桜川を送っていくからよ」
「……先生が、ですか?」
「しゃーねーだろ。こんなフラフラの状態で一人帰すわけにはいかないからな。マンションまで近いし、ちょっとくらいなら空けても大丈夫だろ。仕事が終わったら、飯と薬を用意して行ってやるよ」
若月先生の提案に、私は素直に「お願いします」と頷いた。普段は不良教師だ何だと言っても、こういう時、やっぱり若月先生は大人で頼りになる。

「……」
「ん?何だ華原。そんな目で見て。オレ様が桜川に何かするんじゃないかって不安か?」
「なっ、何言ってるんですか先生っ!何かって何ですか!?」
聞き捨てならない若月先生の言葉に、思わずベッドから起き上がり、声を上げてしまう。
「こら、病人が大声出すな。冗談だよ、冗談。…それとも、冗談じゃない方が良かったか?ヒトミちゃん?」
ニヤリと笑みを浮かべる先生に、しまった、余計なことを言ってしまったと気付く。
「そっ、そんなわけないじゃないですか!…やだっ、来ないで下さいぃぃっ!」
「ほーお?そんなにしてほしいのか。なら、ご期待に添わないわけにはいかないよなぁ」
「っ!」
だんだん若月先生が近付いてきて思わず身構えれば、予想に反して、若月先生はあっさりと距離を取った。
「…なーんてな。ま、今は本調子じゃないし、からかうのはこのくらいにしといてやるよ。…誰かさんが恐ーい顔して睨んでるしな」
「え?」
そう言って若月先生が視線を向ける先にいるのは、華原君。
…華原君が睨んでる?
先生に釣られて、ベッドの横に立つ華原君の顔を覗き込む。華原君は少し目を見開いて、その表情は恐いと言うよりも、何だか困惑しているように見えた。
華原君は私の視線に気付くと、ぷいと顔を逸らしてしまった。
「はぁ…わかりました。授業が終わったらすぐに桜川の鞄を持ってくるんで、桜川のことお願いします」
「おう、任せとけ」
「じゃあ、桜川。授業が終わったらまた来るから。無理しないで寝とけよ?」
「うん。ありがとう、華原君」

華原君が保健室を後にすると、若月先生はニヤニヤ笑いながら視線を向けた。
「…何笑ってるんですか?」
「ん?いや~、青い春ってやつだなーと思ってな」
「……?…どういうことです?」
「わかんねーなら良いんだよ」
大人しく寝とけ、と子供をあやすようにくしゃりと頭を撫でられる。
…何だか悔しい。まるで先生は全部わかっているみたい思えて。
私はわからないことがいっぱいで、今だってどうしたら良いのかよくわからないのに。

だからだろうか。
「…先生。…私、最近華原君とどう接すれば良いのか…よくわからないんです」
気が付けば、そう零していた。
私の言葉に、若月先生は一瞬怪訝そうに眉をひそめる。
「…どうした?急に。修学旅行の時に何かあったか?」
その問いに、私は曖昧に頷いて返事をする。
「私も、自惚れかも知れないけど、華原君と仲良くなれてきたなって思ってたんです。でも、そうじゃなかった…そう思い知らされちゃって」
ポツポツと話し始めた私の言葉を、若月先生はいつになく真剣な表情で、黙って聞いていた。
「最初は、単純に華原君と仲良くなれたら良いなって。華原君の近くにいられたら良いなって思ってたんです。…ううん、今でもそう思ってます」
でも、この前の修学旅行で、華原君の心の傷を知った。
信じていた人に裏切られて、今も深く傷付いている華原君にとって、きっとそれは迷惑なことに違いない。
「本当は、もっと華原君のこと知りたいし、一緒にいたいけど…華原君にとってそれは、きっと迷惑なことなのかもしれないって」
私はこれ以上、華原君の内側に踏み込んではいけない。
それはわかっている。
わかっているけれど。
でも、それでもーーー……。
「自分でもよくわからないんです。私はどうしたら良いんだろうって」
そこまで言うと、それまで黙っていた先生が口を開けた。
「……何っつーか…お前でも、そんな風に色々悩むんだな」
「な、何ですか、いきなり」
失礼なことを言われた気がするのは気のせいだろうか?
人が真面目に悩んでいるっていうのに。ジロリと訴えるように睨むように先生を見上げる。
「いや、悪い悪い。…何だよ、そんな睨むなって」
若月先生は宥めるように私の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「…そうだ、華原と言えば。修学旅行の時のあいつの話、聞いたか?」
「……?」
「お前が上級者コースに行っちまったらしいって聞いたら、華原の奴、周りが止めるのも聞かずに、お前を探しにスッ飛んで行ったらしいぞ」
「え…?」
「周りは教師を呼んで待った方が良いって言ったらしいんだけどな。あいつ、全然聞く耳持たなかったんだと」
…華原君が。そんなの初めて聞いた。
「……そうだったんですか…」

『桜川!』
あの時の華原君の姿が脳裏に蘇る。
道に迷って途方に暮れていた私の所へ駆けつけてくれた。
怖くて、不安でいっぱいだったけど、華原君の姿を見た瞬間、すごく安心したのを覚えている。
あの時の華原君は、すごく息を切らしていた。きっと必死に探してくれたのだろう。
自分だって遭難するかもしれないのに。実際、本当に危ない目にも遭った。
それでも、華原君は来てくれたんだ。……私のために。

「華原は…、気の付く奴だが、馬鹿みたいにお人好しってわけじゃねーからな。誰かさんと違って」
「……それって、私のことですか?」
わかってるじゃねーか、と若月先生は意地悪っぽく笑った。
「華原も馬鹿じゃないから、普段のあいつならあんな無茶な真似はしなかっただろうよ」
「………」
「でも、あの時のあいつはそうしなかった。そうできなかったって言った方が正しいか」
「………」
「つまり。お前は華原にとって、そうさせる位には大事な存在っつーことだ。わかるか?」
そう言う若月先生に、私は曖昧に頷いた。
えーと、つまり…?少しは自惚れても良いってことなのかな…?
「…さっき、桜川はどうすれば良いかわからないっつってたけど、お前はそんな華原にどうしたいと思った?」
「……」
「そんなに悩まなくても、お前のやりたいようにすれば良いんだよ。例えそれが正解でなくても、桜川なら大丈夫だろ」
それは、さっきの私の問いに対する若月先生の答えなのだろう。
「…と、喋りすぎちまったな。授業が終わるまでまだ時間があるから、それまでゆっくり寝ろ。具合が悪くなったら、すぐオレ様を呼ぶんだぞ?」
「…はい。ありがとうございます、先生」
若月先生はさっきとは打って変わって優しく私の頭を撫でると、ベッドのカーテンを閉め、自身の机へと戻って行った。


聞き慣れた、授業の終了を告げるチャイムの音が聞こえて、ゆっくりと目を開いた。
あれから私はすぐに眠りについてしまったらしい。
「桜川、起きてるか?」
「はーい」
返事をすると、カーテンが開き、若月先生が顔を覗かせた。
「体調はどうだ?」
「ぐっすり眠れたので、さっきより楽になった気がします」
「なら良いけどよ。…そうだ、鷹士に連絡入れといたからな。鷹士の方は予定を早めて、明日の商談が終わったらすぐ帰るってよ」
「そうですか。…お兄ちゃん、その、大丈夫でしたか?」
「…ああ。『ヒトミは!!ヒトミは無事なのかあぁぁーっ!!??』って涙声で叫んでたけど、まあ、大丈夫だろ」
「あはは、もう、お兄ちゃんったら…」
お兄ちゃんのことだから、若月先生の話以上に、慌てふためいていたのだろう。そんなお兄ちゃんの姿が想像できて、思わず苦笑してしまう。

その時、控えめに保健室の扉を開ける音がした。
「失礼します」
扉の開く音と共に聞こえてきた声に、ドキッと心臓が脈打った。
「お、華原か」
「…桜川、起きてますか?」
「おぉ、丁度起きた所だ」
ベッドのカーテンから、華原君がそっと顔を覗かせる。
その手には、私の鞄が提げられていた。
「桜川…調子、どう?」
「うん、大丈夫。さっきよりも楽になったよ」
「そっか。良かった」
華原君の表情が和らぐ。本当に心配かけっちゃったな、と申し訳なくなると同時に、心配してくれたことが何だか嬉しくも感じる自分がいた。
「よし、桜川。起き上がれるか?支度できたら帰るぞ」
「はーい」
「ーーーあ、すみません、若月先生。それなんですけど…オレが桜川を送るんで」
「え⁉」
ベッドから起き上がると同時に、思わず声をあげてしまう。若月先生も華原君の一言に、僅かに目を瞠っていた。
「で、でも華原君。まだ授業があるよね?」
「大丈夫だよ。ちゃんと先生にも言って許可貰ったし、桜川を送ったらすぐに戻れば良いんだからさ」
な?問題ないだろ?と、言うように笑いかける華原君に、どう返事をしたら良いのかわからなくて、思わずベッドの横に立つ若月先生を見上げた。
「あーー…まあ、許可取ってるなら良いか。じゃあ華原、桜川頼むわ」
「先生っ!」
「はい、わかりました。じゃあ桜川、立てる?」
「う、うん…」
伸ばされた華原君の手を取って、ベッドから立ち上がる。
さっきの若月先生の話もあって、これから華原君と二人だけで帰ると思うと、妙に緊張してしまう。
「じゃあな、桜川。オレ様も仕事が終わったら、夕食と薬持って行ってやるから。それまで大人しく寝とくんだぞ」
「はい。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた後、華原君と二人で保健室を後にした。

「桜川」
保健室を出て、すっと伸ばされた華原君の腕に、私は目を瞬かせる。
「…え、と…?」
「オレの腕掴んで。そんなフラフラしてるのに、転んだら危ないだろ?」
「えっ、えぇぇぇ⁉」
それって、華原君と腕を組むってこと⁉
「…何だよ、その反応。そんなにオレと腕組むのイヤ?」
「めめめ、滅相もありません!…じゃ、じゃあ…お邪魔します…」
恐る恐る、華原君の腕に手をかける。体育祭の時も思ったけど、華原君の腕は私と全然違って、力強くて逞しくて、やっぱり男の子なんだな、なんて…って、何を考えてるんだろう、私ってば!
心臓がドキドキして、顔がとても熱く感じるのは、きっと熱だけのせいじゃない。
…平静を保たなければ。華原君におかしい子だと思われてしまう。
(…いや、もう十分思われてるような気もするけど……)
高まる鼓動は治まってくれそうになくて、私は華原君の顔を見ることはできないまま、二人でゆっくりとマンションまでの道のりを歩いた。

「桜川、着いたよ」
「…う、うん」
マンションの自分の部屋の前に着くと、そっと華原君の腕が離れた。離れてしまった腕の温もりが、何だか寂しさを覚える。
「じゃあ、無理せずに休んどけよ?」
「うん…ありがとう、華原君。送ってくれて」
お礼を言った後、ほんの少しだけ考えて、私は更に言葉を続けた。
「あとね、この前の修学旅行の時も……ううん、それだけじゃないよね。去年の春から、今までずっと…本当に、いつもありがとう」
「………」
華原君は少しだけ驚いた表情をした後、そのまま何も言わなくて、しばらく二人で立ち尽くす。
…あれ?私、今何かマズいことを言ったかな?だんだんとそんな不安感に襲われ始める。
どうしよう……。…でも、黙ってたらわからないよね…。
この沈黙をどうにかしたくて、私は恐る恐る、声をかけた。

「か、華原君…?」
「………桜川って、本当にお人好しだよな」
「なっ!?」
思いもよらぬ華原君の言葉に、私は間抜けな声を上げてしまった。
「だってさ、オレの素顔知ってもまだそんなこと言えるって…。オレ、結構ヒドいことも言ったと思うんだけど?」
「……う、それは…、まあ……」
確かに、華原君の素顔を知った時はキツいことも言われたし、すごくショックでビックリしたけれど…。
「でも、今まで華原君が優しくしてくれたことは、変わらないでしょう?」
「……。…本当にすごいな、あんたって」
「そんなことないよ。信じてくれないかもしれないけど、本当に、そう思ってるんだよ?」
「……うん。ありがとう」
そう言った華原君の表情は、とても穏やかだった。
「あ、ごめん。こんな所で話し込んでちゃ、風邪が悪化しちゃうよな。…ほら、今日はもうゆっくり休んで、早く元気になってくれよな」
「…うんっ」
もう一度「ありがとう」と華原君に伝えると、華原君は少し擽ったそうに笑った。そして、またねとお互いに手を振って、私は玄関の扉を閉めた。

今日一日で、最近まで感じていた華原君との距離が、少し縮んだような気がする。
(…って考えると、風邪を引いて良かったのかな……?なんてね)
我ながら調子が良いなと苦笑する。
部屋に入りパジャマに着替えて、ベッドへ寝転ぶと、安心したのか、急に眠気が襲ってきた。
(先生が来るのはまだだろうし…ちょっとだけ、寝ようかな…)
そう思った矢先、瞼はどんどん重くなり、意識が遠のいていく。
微睡んでいく中で、先生が言っていた言葉を思い出していた。

―――桜川は、華原にどうしたいと思ったんだ?
―――そんなに悩まなくても、桜川のやりたいようにすれば良いんだよ。

(……本当に、良いのかな?)

もし、良いのだとしたら。
私は、もっと、もっと、華原君のことを知りたい。
これからも、華原君の隣にいたい。

…そして、いつか。華原君がまた人を信じることができますように。
華原君が淋しくありませんように。

そう願いながら、私はゆっくり瞼を閉じた。


06.言えたらどんなに楽だろう

「えっと…私、好きな人がいて。だから…ごめんなさいっ」
「…あー…そっか。こっちこそ、ごめんな、急に」
「ううん。…でも、ありがとう」
気まずい空気を漂わせながら、足早に去っていくクラスメイトの背中を見送る。その姿が見えなくなると、ヒトミはふーっと大きく息を吐いた。
そのまま校舎の壁に背を預けてしゃがみこむ。

じわじわと熱い六月の日差しが夏の訪れを伝える、放課後の裏庭。
あまり人気がないその場所は、生徒の間では密かに告白スポットとなっている。
その例に漏れず、先程ヒトミはここでクラスメイトから告白を受けていた。
「うー…やっぱり慣れないなぁ」
告白をされたのは、今回が初めてではない。
涙ぐましい努力の甲斐あって、ダイエットに成功したヒトミは、かつて美少女コンテストで優勝を総なめにしていたという経歴も頷ける美少女へと変貌を遂げた。
元々人の好い性格もあり、二年生の終わり頃から周囲の見る目が変わり始め、最近ではこうして告白を受けることもしばしばある。
しかし、ヒトミにとって美少女と言われたのは遠い昔の話だ。
年頃と呼ばれる年齢になった時には、既に体重は100kgに達し、当の本人も食べることに夢中で、つい最近まで自分には色恋なんて無縁だと思ってきたのだ。
だから今の状況には戸惑いがあり、正直これなら太っていた頃の方が良かったかも…とたまに思ってしまう。
好意を持って貰えるのは素直に嬉しい。けれど、その気持ちに応えられないことに罪悪感も感じていた。

「桜川」
「え?」
しゃがんでいるすぐ上の方から声がする。見上げると、丁度ヒトミが背にしていた校舎の窓から、雅紀がひょいと顔を覗かせた。
「か、かか、華原君!?」
驚きのあまり、ヒトミは思わず飛び上がるように立ち上がる。
「そんなに驚くなよ」
そう言いながらクスクスと笑う雅紀に、ヒトミは拗ねたようにぷぅ、と小さく頬を膨らませた。
「だって、こんな所で華原君に声かけられるなんて思わないもん。ビックリするよ」
「ははっ、ごめんごめん」
「…にしても、華原君はそこで何をしてるの?」
雅紀のいるその部屋は、国語準備室のはずだ。
そして今は放課後。室内には先生もいないようだし、彼がその部屋に用があるとは思えない。
「あぁ。先生に今日提出のノートをクラス分準備室に持ってきてくれって言われちゃってさ」
今日、日直だったんだよね、と続ける。
「そっか。タイミング悪かったね」
「本当。オマケに先生は用事があるからってさっさと帰ってくんだもんな」
参っちゃうよ、と苦笑する雅紀につられ、ヒトミも笑みを零す。
…良かった。
彼の様子を見るにさっきの会話を聞かれたわけではなさそうだ。そっと胸を撫で下ろす。

雅紀の本性を知った衝撃的な卒業式から早三ヶ月。
最初はどうなるかと思った彼との関係は、驚くほどこれまでと変わりないものだった。
顔を合わせば他愛ない会話をしたり、学校ではクラスは離れたものの、時間が合えば一緒に帰る日もある。ダイエットも変わらず続けているため、彼の愛犬の散歩の時間と重なれば、共に走ることもあった。
あんなに悩んだのが嘘のように、ヒトミは雅紀と卒業式前と変わりない友好関係が続いている。
あの卒業式の出来事は夢だったのではないか、とさえ思ってしまう程だ。

「桜川こそ、そんな所で何してるの?」
「えっ!?」
ドキッと心臓が飛び跳ねる。
「誰かと話しているような気がしたけど…」
「え、えーと…」
……マズい。
やっぱり聞かれてた?サーっと冷や汗が背中を伝う。
「あの…もしかして、聞こえてたり、した…?」
恐る恐る尋ねてみると、雅紀はニッと笑った。
「さぁ?どう思う?」
「……っ」

そういえば。卒業式以来、変わったことが一つだけある。悪戯っぽい、今の雅紀のその表情。
皆の前では決して見せることのないそれは、ヒトミと二人きりの時に見られるものだ。
そういう時はだいたい意地悪を言われたり、からかわれるのが常なのだが、恐らくこれが彼の素顔なのだろう。近頃はそんな雅紀に振り回されることが多いのだが、彼が自分に素を見せてくれていると思うと、内心嬉しくもあった。
…しかし。今のこの状況は。
雅紀の表情で確信する。聞いている、絶対に。
よりによって、一番聞かれたくない人に聞かれてしまうなんて。
心の中で嘆くが、今はそれどころではない。何とか誤魔化さねば。
けれど、下手に嘘をつくと鋭い彼にはきっとすぐにバレてしまうだろう。
じゃあどうしよう、とヒトミは必死に思考を巡らすが、良い案は何一つ浮かばない。
何も言えずに黙りこくってしまうヒトミを前に、雅紀は徐に口を開いた。

「……ああいうことって最近多いの?」
「あ、ああいうことって?」
「告白されてただろ?桜川」
「………!」
やっぱり聞こえてたんじゃないーーーっ!!!と、思わず叫びそうになるのを必死に堪える。
「な、なな、何のことかなぁ?」
何とか平静を装おうと試みるが、声が震えてしまっている。目が泳いでいるのが自分でも分かった。
そんなヒトミの様子に、雅紀はこらえ切れないと言わんばかりに、プッと吹き出す。
「はははっ、桜川って本当に嘘を吐くのが下手だよな」
「うぅぅ……もうっ!華原君こそ、わかってるならどうして聞くの!?」
こっちはあなたのせいでこんなにも動揺ちゃっているのに。私の気も知らないで。
そう思うと、何だかだんだん腹立たしさを覚えてきた。
じっと睨むように雅紀を見つめると、「悪い悪い」と言いながらも、まだ小さく笑い続けている。
もう知らないって言うように、ヒトミはぷいっと顔をそむけた。

ああ、今日はちょっとツイてないかもしれない。
告白される所を雅紀に見られるわ、今はそのことでからかわれているわ。
そしてその態度は彼にとって、自分は何とも思われてないということを突き付けられているようで、余計にヒトミの気分を落ち込ませた。

「…好きな奴」
「え?」
「いるって言ってたよな?」
…いつの間にか、雅紀の表情からは、さっきまでのからかう色は消えていた。
真っ直ぐな視線がヒトミに向けられる。
その視線に、だんだんと顔が熱を帯びていくのがわかった。
「…い、言ったよ?」
「あれって本当?」
「………」
ドクン、と大きく心臓が脈を打つ。
…どうしよう。何と答えれば良い?
「あれは嘘だ」と言ってしまう?きっとその方が良いだろう。
言ってしまえば、「なんだやっぱりな」って、これ以上からかわれることはない気がする。
(……でも)

もし頷いたら、彼はどんな反応を見せるだろう?

少しは気にしてくれるだろうか?
そんな小さな好奇心と期待が、胸の中で浮かび上がり、気付けば答えてしまっていた。
「ほ、本当だよ?」
「……。ふーん…」
そう呟くと雅紀は黙り込んでしまい、それに反してヒトミの胸はだんだんと高鳴っていく。
これはもしかして、もしかしたりするのだろうか…?
「…誰なのか気になる?」
そう口にした時、雅紀の表情が固まった気がした。
(…え?)
その表情に、「なーんてね」と、茶化そうとしたのも忘れてしまう。

しかし、それも一瞬で、すぐにいつもの笑顔に戻り、その口から期待と反する答えが放たれた。
「別に?ただ、桜川にもそういう奴がいるって何か意外だなって思ってさ。ちょっと聞いてみただけだよ」
ズキリ、と胸が小さく痛みを発した。
「あ…、そう、だよね。気にならないよね、そんなこと」
想像以上に落胆している自分がいて、苦笑いを浮かべる。
雅紀ならそう答えるだろうと予想してはいたけれど、それでも淡い期待を持ってしまうのはどうすることもできなくて。あはは、と力なく笑いながら、ヒトミは心の中でガクリ、と肩を落とした。

「…じゃあさ、桜川の好きな奴って誰?」
「え?」
一瞬何を聞かれたかわからず、ヒトミは目を丸くする。
「…って聞いたら、答えてくれる?」
「え…?あ、その…」
雅紀の意図がわからず、ヒトミはただただ困惑する。
さっき気にならないと答えたはずなのに、どうしてこんなことを聞くのだろう。
彼の考えていることがわからない。そんな戸惑いが表情に如実に表れていたのだろう、しばらくすると雅紀は小さくクスリ、と笑った。

「なーんてね。そんな顔するなよ」
「え?…あ」
どうやらまたからかわれていたらしい。そう気付くと、ヒトミは大きく頬を膨らます。
「かーはーらーくーーん?」
「悪い悪い。本当、桜川はからかいがいがあるというか、バカ正直というか」
「もう…っ!からかっても良いことと悪いことってあるんだからね!?」
本当に悪いと思っているのだろうか。ジトリ、と雅紀を睨みつけると、「本当に悪かったって」と言いながら、雅紀は自分の大きな手をヒトミの頭に乗せ、そのままガシガシと撫でた。
少し雑だけど、優しく撫でるその動きは、まるで彼の愛犬シュタインにするのと同じもので。
それが何だかとても心地よくて、これで許してしまいそうになる自分がいるのがとても悔しい。

「教えない方が良いよ。特に、オレみたいな奴にはさ。邪魔しようとするかもしれないぜ?」
「…そうだね。今の意地悪な華原君ならやりかねないかも」
「そういうこと。…それじゃ、オレ部活あるから」
「うん。頑張ってね!」
じゃあな、と爽やかな笑顔で手を振って立ち去るその姿は、いつもと何も変わらない。
パタン、準備室の扉の閉まる音が聞こえる。それを合図に、ヒトミはへなへなと力が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ。
ドクドクと脈打つ心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえる。
両手を頬にあてると、じわりと熱が伝わってきた。頬だけでなく、全身が熱を持っている気がする。
「もう、何だったのよ…」
ポツリと零れた小さな呟きは、さわさわと風に揺れる葉音にかき消された。

…何故、雅紀はあんなことを言ったのだろうか。
(私が誰を好きかなんて、興味ないくせに)
ただ、自分をからかって楽しんでいるだけ?
(…うん、きっとそう。それだけのこと)
彼にとって、あの質問は気まぐれに聞いただけで、特に意味のないことに違いない。

―――桜川の好きな奴って誰?

「…言えるわけないじゃない」
だって、言わなくても答えは分かっている。 分かっているからこそ、告げられない。

……私の好きな人は、華原君だよ。

そう言えたら、どんなに楽だろう。
でも、この気持ちを伝えられる勇気はまだなくて。
さっき自分に告白してくれたクラスメイトのことを思い出す。
あの彼は、どれだけの勇気を出して言ってくれたのだろう。
それに対して、分かり切った答えを聞くのが怖くて、一歩を踏み出せない自分が何とも情けなく感じる。

…でも。
いつか自分も伝えられるだろうか。
叶わないとしても、真っ直ぐ雅紀に自分の気持ちを伝えることが。
(…うん、言いたい。華原君に伝えたい)
そんな日が来ることを願いながら、ヒトミは青く澄み切った空を仰いだ。


07.その背中を奪いたくて

十一月。この日はセント・リーフ・スクールの文化祭が催され、学内は賑わっていた。
毎年各クラスや部活動がそれぞれ出し物に力を入れているが、中でも一際注目を集めているのは、演劇部だ。
主演は昨年に続いて颯大。ヒロインの姫役として、ヒトミが大抜擢された。
颯大は一年生の時は男子にしては低めだった身長を着々と伸ばし、『可愛い』という言葉が似合っていた顔立ちも、高校男子らしい精悍さが出てきた。おかげで女子達からは格好良くなったと評判で、元々高かった人気を更に上げている。
ヒトミはヒトミで、昨年からコツコツと励んだダイエットのおかげで、今や学校内外で噂になる程の美少女だ。そんな学園の中でも人気の二人が主演をつとめるということで、今年の演劇部は学年・男女問わず教師、生徒達から注目されていた。

昨年の颯大の王子役が好評だったらしく、今年の演目も王子と姫によるラブロマンスものとなった。
とある国の王子が、隣国の姫と恋に落ち、数々の困難にしながらも姫と共に徐々に成長していく。
ありがちなストーリーのように感じるが、何気ない所に張られた伏線と謎が散りばめられ、演劇部員達の演技と演出で、観客を退屈させない作りとなっている。
この後どんな展開になるのか、と観客達は熱心に劇を観ている中、同じく観客席に座る雅紀は、何故か苛々を胸の中で募らせながら舞台を見ていた。
「姫!ご無事ですか!?」
「ええ、私は大丈夫です」
「良かった…君にに何かあったら僕は…」
「大丈夫ですわ。私、信じてましたから。貴方が必ず来てくれると…」
「姫…」
しっかりと抱きしめ合う王子と姫。
その光景はまるで美しい一枚の絵画のようで、近くからほう…と見惚れる観客の声が聞こえてくる。しかし、雅紀はとてもそんな気持ちになれなかった。
敵国に囚われた姫を王子が救い出す、この劇一番の見せ場のシーン。それを熱演する同級生と後輩の姿が、何故かひどく面白くない。
長らく裏方をつとめてきたヒトミが、初めて得たヒロイン役。決まった時は本人もとても喜んでいて、そんな彼女を純粋に応援していたつもりだった。


「ヒトミ先輩、女優の才能あると思うよ!絶対!」
いつかの部活後の帰り道、そう颯大が目を輝かせながら言っていたのを思い出す。一緒にいたヒトミは照れながらも初めての主演に嬉しさを滲ませていた。
「こんな大役が務まるか不安だけど、やるからには思いっきり頑張るよ!」
そう意気込んでいたヒトミに、一緒にいた雅紀は「オレも観に行くから、頑張れよ」と言った。その時のヒトミの嬉しそうな笑顔を鮮明に覚えている。


なのに何故、今、自分はそんなヒトミを見て、こんなにも苛ついているのか。
思えば最近、ヒトミのことで苛々することが増えたような気がする。別にヒトミが何かしたとか、そういう訳ではない。
桜川ヒトミは、三月の卒業式に本性を明かしてから唯一、雅紀の素顔を知る人物だ。あれから半年以上経つが、最近では彼女と二人で話す時はほとんど素を出している状態だ。
最初は戸惑っていたヒトミも、すっかり慣れたのか、今ではあまり動じなくなった。
雅紀が意地悪を言っても、少し困ったように笑うその表情は、まるで雅紀のことをわかっていると受け入れてくれているようで。
今、雅紀にとってヒトミは、唯一自分の素顔を見せられる、誰よりも気安い友人だと言える。
…そのはずなのに。
近頃ちらほらと湧くヒトミの話題を耳にすると、何だか落ち着かない気分になる。
痩せて可愛くなっただの、誰かと付き合っているのか?だの。
彼女に告白をする者も少なくなく、雅紀自身、そういう場面を何度か見かけたことがある。
正直、下らない。殆どの者は一年前まで彼女を陰で嘲笑っていたくせに…と内心彼らを軽蔑していた。
しかし、振り返ってみると、自分だって彼女に対する見方は一年前と今とでは大きく変わっている。一年前、自分にとって『桜川ヒトミ』という人間は、『周りのその他大勢の一人』でしかなかったのだから。
今は、多分違う。…じゃあ何なのか。
その問いの答えを導き出せずにいる。
友達?…いや、親友?敢えて言うならばそうだろう。
しかし、何故かしっくりこない。

(…て言うか、いつまでくっついてるんだよ、あの二人)
舞台の上では颯大がヒトミを抱き寄せながら、何か台詞を続けているが、全然頭に入ってこない。
それでも、ヒトミの背に回された颯大の手は嫌でも目に入ってしまう。
理由のわからない焦燥感が、だんだん色濃く増していく。
その時一瞬、颯大と目が合った気がした。
(あ…)
それを裏付けるかのように、颯大はヒトミの背に回している腕に更に力を入れ、より自分の方へとヒトミを引き寄せた。
「……!」
思わず立ち上がりそうになるのをどうにか堪える。
(颯大のヤツ…!)
役に入り込んでいるためなのか、ヒトミの颯大を見つめる視線も何だか熱っぽくて、それが更に雅紀の神経を逆撫でする。
ああもう、何なんだよあの二人は。
今すぐ二人を引き剥がして、彼女をこちらへ抱き寄せたい。そんな衝動に駆られそうになるのを、何とか抑え込んだ。
(…落ち着けよ、オレ。だいたい何でこんなことで苛々してるんだ?)
こんなの自分らしくもない。
じゃあ、自分の中で燻るこの感情は何なのだろう?
わからない、わからない。
……本当に?本当にわかっていない…?
そんな自問自答を繰り返している間に、劇はエンディングを迎えていた。
結局、最後の方は全然頭に入って来なかった。
舞台の幕が下りると、観客席からは拍手喝采で、結果は大成功だろう。
劇が終わった後は、ヒトミと模擬店を見回る約束をしている。
「終わったらすぐ着替えるから、舞台裏に来てね」と、劇が始まる前にヒトミから言われていた。
正直な所、今はあまりヒトミと顔を合わせたい気分ではなかったが、約束は約束だ。
(…仕方ないか)
席を立つと、舞台裏へと向かう。その足取りは、妙に重く感じた。

舞台裏では、演劇部員達が忙しなく後片付けを行っていた。その人影の中に、ヒトミの姿を見つける。
「桜川」
「あっ、華原君!」
まだ舞台衣装のドレスを纏ったまま、ヒトミは雅紀の方へ駆け寄った。
ドレスのスカートの裾を持ちながらこちらへ駆け寄る姿は、まるで本物のお姫様のようで胸が高鳴ったが、それに気付かないフリをする。
「ごめんね、まだ着替えてなくて」
「良いって。それよりお疲れ様。劇、良かったじゃん」
「うん!この日のためにいっぱい練習したからね。成功して良かったよ」
心底ホッとしたように、ヒトミはふにゃりと力が抜けたように笑った。
そんなヒトミの様子に、憂鬱だった気持ちが少しずつ和らいでいくような気がする。
「…そういえば颯大は?」
辺りを見渡すと、今回の主役である颯大の姿が見えない。いつものようにヒトミにくっついているのだろうと思って身構えていただけに、少し拍子抜けしてしまう。
「颯大クンは劇が終わったらすぐにクラスの模擬店に入らないといけないみたいで、もう着替えて行っちゃったんだ」
劇もあるのに大変だよね、と心配そうな顔のヒトミとは裏腹に、雅紀は内心ホッと胸を撫で下ろす。
颯大とは気が合うし、可愛い後輩だと思っている。しかし、今、颯大とヒトミが一緒にいる所を見たら、感情の自制が効かなくなりそうな気がした。
「…ん?」
ヒトミがこちらをじっと覗き込むようにして見つめていることに気付く。
上目遣いで見上げられるその仕草に、姫の衣装と相まって、思わずドキッとする。それを悟られないように、なるべく表情に出ないように努めた。
「何?オレの顔に何かついてる?」
「あ、ううん。颯大クンがちょっと変なこと言ってて…」
思わずピクリ、と小さく眉をひそめる。
「……颯大?」
「うん。劇の最中にね、気のせいかも知れないんだけど、華原君と目が合ったんだって。『何か不機嫌そうだったよ。あんな雅紀先輩の顔、初めて見た』って言ってたから。…何か劇で変な所あった?」
「…!」
やはりあの時目が合ったのは気のせいではなかったのか。きっとわかっててやっている。
心の中で小さく舌打ちしながら、そんな感情は表に出さないよう、雅紀はニコッと微笑み返した。
「そんなことないって。ほら、劇の間って結構暗いだろ?ちょっと見えにくくて難しい顔をしてた時もあったかもしれないけどさ。もしかしたらそれのことじゃない?」
言い訳にしてもちょっと苦しいだろうか?と思ったが、ヒトミはすんなり信じてくれて、ホッと安心した表情を浮かべた。
「なんだ、そっか~。良かったよ。せっかく頑張ったのに、華原君が気に入ってくれなかったらって」
「そんなわけないだろ?良かったって言ったじゃん。それより、早く行こうぜ」
「うん。じゃあ、着替えてくるからちょっと待っててね」
「急いでこけないようにな」
「ムッ、大丈夫だもんっ」
そう言って手を振り上げるヒトミの手首がキラリ、と光る。見覚えのあるそれに、雅紀は思わず目を瞠った。

「……桜川」
着替えに行こうとしたヒトミを思わず呼び止める。
「え?どうしたの?」
「その、手首につけてるやつ…」
「あ…!うん、そうだよ。華原君、よく気付いたね」
嬉しそうに笑いながら、ヒトミは裾を捲り上げる。
白くて細い手首にキラキラと輝くのは、昨年の卒業式、ホワイトデーのお返しとして雅紀が贈ったジルコニアのブレスレットだった。
「何でそれを…」
あの日の彼女は、驚きと困惑と、とても傷ついたような表情をしていた。
無理もない。そうなるように、自分が仕向けたのだ。
だから、ヒトミにとってそのブレスレットは、決して良い思い出のものではないはずだ。
捨てられていてもおかしくないと思っていた。
…そんなものをなぜ?
そんな雅紀の戸惑いをよそに、ヒトミはケロッとした顔で答える。
「何て言うのかなぁ。お守り…というか」
「……お守り?」
薄っすらと頬を染めながら、ヒトミは小さく頷いた。
「うん。…あのね、今日みたいに劇の本番とか、テストがある時とか、大事な日にはいつも持つようにしてるんだ。これを着けてると、何だか上手くいくような気がして」
予想もしないヒトミの言葉に、雅紀は思わず「は?」と声を出してしまう。
「何だよ、それ。そんなご利益なんてないと思うけど」
「あはは、そうかもしれないね。…でも、華原君がくれたものだから」
「…え?」
「このブレスレットを持ってたら、華原君が応援してくれてるみたいで力が出るって言うか…。あ、意味分かんないよね、ごめんね、今のはナシ!でもでも、すっごく効くんだよ!おかげで今日の劇も大成功だったもん」
「……」

本当に彼女は馬鹿だ。
このブレスレットに、そんな力なんてあるものか。
自分はそんなつもりであげたわけじゃない。
ただ、どこまでもお人好しなヒトミを傷付けたくて、それでも人を信じることができるのか試してみたくて。
そんな、歪だらけな感情で渡した代物なのに。

何でそんなに大事そうにしているんだ。
何でそんなに嬉しそうな顔をしているんだ。
…何で、たったそれだけのことなのに、こんなにも胸が締め付けられるんだ。

「あ、ブレスレットだけじゃないんだよ!…それにね」
ヒトミは、照れくさそうな表情で、雅紀を見つめた。
「あの劇の王子様って、何か華原君に似てるなって思ったんだよね」
「……オレに?」
「うん。最初は王子様って、味方の家臣に裏切られて周りの人を信じられなくて、お姫様と出会うまで誰にも心開けないし、頼ることも出来なかったでしょ?それが何となく、あの時の…卒業式の、華原君に似てるな…って」
……あの王子が自分に似ている?
「そう思ったら、王子様を支えたいお姫様の気持ちとシンクロできたと言うか、より役に入り込めたんだ」
ふと、王子を演じる颯大を熱っぽく見つめていたヒトミを思い出す。
じゃあ、あの時ヒトミが見つめていたのは―――…。
「だから、今日の劇も上手くできたのは、やっぱり華原君のお陰なんだよ。…ありがとね」
そう言ってふわりと微笑むヒトミに、雅紀は何も応えることが出来なかった。
ただ、心臓がやけに早く脈を打っていて、ドクドクと煩くて。周りにも聞こえてしまうのではないかと思えた。
「華原君?」
さっきから黙りこんでいる雅紀に、ヒトミは不思議そうに顔を覗き込む。
「どうしたの?具合悪い?」
「…いや、大丈夫だよ」
「でも、顔ちょっと赤いよ?もしかして熱があるんじゃ…」
「――…の…いだろ」
「え?」
呟いた声は小さすぎて、どうやらヒトミには届かなかったらしい。
「…何でもない。大丈夫だからさ。早く着替えて来なよ」
「う、うん…」
それでも、「本当に大丈夫?」と心配そうに聞くヒトミに、「本当に大丈夫だって」ともう一度言う。
渋々とその場を後にするヒトミの姿が見えなくなったのを確認して、雅紀は、はあー、と大きく息を吐いた。

……気付いてしまった。
最近、周囲がヒトミの話題をするたびに苛ついていた、その理由。
劇の最中、颯大がヒトミを抱き寄せた時に感じた黒い感情。
彼女に触れてほしくない、渡したくないと思った。今すぐその手から奪ってしまいたいとさえ。
そして、先程のヒトミの言葉。自分が渡したブレスレットを大切に持ってくれていた。
彼女の言葉の一つ一つが脳裏に焼き付いて、嬉しくて、今こんなにも舞い上がってしまっている。
おかげで顔は熱くて、心臓は煩くて。
それも全部、全部。
「…桜川のせいだろ」
ボソリ、と小さく呟く。
自覚してしまった。自分には絶対に芽生えない、あり得ないと思っていたのに。
(……どうすれば良いんだよ)

初めて自覚したこの感情に、どう向き合えば良いのか、まだわからない。
とりあえず今は、ヒトミが戻ってくるまでにこの顔に集まる熱を冷まさなければ。
そう結論付けると、気持ちを落ち着けるように、雅紀は大きく深呼吸をした。



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