Green-eyed

一日の授業が終わり、鞄を持って教室を後にする。
今日は部活も休みだし、かと言って特に予定もない。しかし、そのまま真っ直ぐ帰るのも味気ない。
そんな日は、図書室へ立ち寄るのが綾人の習慣だった。
この学園の図書室は蔵書数も豊富で、探せば興味をそそられる本が幾つもある。読んだことのない本を読むのも楽しいし、何度も読んだお気に入りの本を楽しむのも良い。
今日はどうやって過ごそうか、と思考を巡らせながら、図書室へと歩みを進めた。

図書室に入ると、ちらほらといる生徒達の中に、よく見知った後ろ姿を見つけた。
遠目からでも夢中になって読んでるのがわかるその姿に、クスリと笑みを零しながら、そっとその後ろ姿に近付いていく。
「ヒトミちゃん」
「うわぁっ!…って、か、神城先輩っ!?」
ガタン、と立ち上がった拍子に揺れる椅子の音とヒトミの声に、周囲の視線が集まる。それに気付いたヒトミは「す、すみません…」と小さな声で頭を下げると、萎れたように席へと着いた。
「ごめんね。僕が急に声をかけたから…」
「いえ、大声を上げた私が悪いんです」
落ち着きがないってまた一ノ瀬さんに怒られちゃいますね、と笑うヒトミに、綾人も思わず苦笑した。
「神城先輩も、今日は図書室で読書ですか?」
「うん、そうなんだ。…こっちの席に座っても良いかな?」
「あ、はい、もちろん。一人で読んでたので」

ヒトミの向かいの席に着き、鞄から本を取り出す。ヒトミの方へ目をやると、ヒトミの前には読んでいる本と一緒に、辞書とノートが広げられていた。
「その本、この前の?」
「はい。神城先輩が貸してくれた本です。やっと半分近くまで進みました」
今ヒトミが読んでいる本は、表紙のタイトルはもちろん、本文も全て英語で書かれている。それは先週、洋書を読んでみたいが何を読めば良いのかわからないと悩んでいたヒトミに、綾人が貸したものだった。
「先輩が言った通り、読みやすいです。話も面白くなってきたし、挿絵も綺麗で」
「児童文学だけど、大人が読んでも面白いでしょう?この作者は他にも面白い作品を書いてるから、読み終わったらまた貸してあげるね」
「良いんですか?」
「もちろん。本に興味を持ってもらえるのは嬉しいからね」
「ありがとうございますっ」
ぱあっと花が咲くような笑顔に、綾人も自然と頬を緩める。ダイエットに励んだお陰で、出会った時とは見違える程見た目は変わったが、素直で思ったことを感情豊かに表す所は全然変わらない。
「じゃあ、わからない所があったら遠慮無く聞いてね」
「はい、ありがとうございます」

それから綾人はお気に入りの本を取り出すと、しばらくの間読み耽ていた。
ふとヒトミの方へ目を向けてみると、こちらの視線に気付く様子もなく、辞書を片手に一所懸命読む彼女の姿があった。時折ノートに何か書いているのは、わからなかった単語や文節を書き留めているらしい。
訳に気を取られてると思いきや、しっかり物語も楽しんでいるらしく、たまにくすっと笑みが零れたり、驚いた表情を浮かべている。
本を読むよりもヒトミを見ている方が面白いかもしれない。
ついそんなことを考えてしまう。そのまましばらくヒトミを眺めていると、文章を辿るヒトミの指がピタリと止まった。
「……」
辞書を捲りながら、首を傾げ、眉を寄せる。うーん、と俯いて一呼吸置いた後、「神城先輩、すみません」と小声で話しかけられた。
「どうしたの?」
「あの、ここ文なんですけど…。こういう意味かなって思ったんですけど、それだとその前の台詞とイマイチ繋がらないなって…」
「ああ、これはね…」
少し身を乗り出して、ヒトミがわかりやすいよう説明をする。うんうん、とヒトミが頷く後ろで、図書室へ見知った人物がやって来たのが綾人の目に留まった。

(華原君。…珍しいな)
入り口を背にしているヒトミは雅紀が来たことに気付かず、本に集中している。
「…あ、そっか。これなら意味が通るようになりますね」
「そうそう。それにしても、すごいねヒトミちゃん。短時間でこんなに読み進めたなんて」
「そんなことをないですよ。神城先輩に比べたら全然…」
素直に褒めると、くすぐったそうにヒトミははにかんだ。
そんな会話をしている間に、雅紀も自分達に気付いたらしい。少し見開かれた瞳と視線がぶつかった。
(……え?)
気のせいだろうか。ほんの一瞬だけ、睨まれたような気がした。
……睨む?あの雅紀が?
気のせいだろうと思い直し、再びヒトミの方へ視線を戻す。
「あ、あと、すみません。ここなんですけど…」
「ん?…ああ、ここはーー…」

「何読んでんの?桜川」

「うわぁっ!」
驚いたヒトミの声が再び図書室に響く。再度集まる周囲の視線に、ヒトミはまた小さくなりながら「すみません…」と頭を下げるのだった。
「か、華原君…?」
「ごめん。急に声かけたから、驚かせちゃったよな」
「…ううん、大丈夫だよ。大声を上げた私が悪いんだし…」
「神城先輩も、こんにちは」
そう言って向けられるのは、いつもの彼の人当たりの良い笑顔。しかし、どこかピリピリとした雰囲気を綾人は感じ取る。それに少し戸惑いながら、なるべく表に出さないように、こちらもニコッと笑いかえした。
「やあ、華原君。珍しいね、こんな時間に図書室に来るなんて」
「ええ。今日は委員会あって。それが終わったんで、授業の課題の資料を探しに」
課題という言葉に、すかさずヒトミは反応する。
「課題って、古典の?でもあれって確か、期限は再来週だよね?」
「こういうのは早いとこやっとかないとさ。特にオレは古典なんて苦手中の苦手だし」
それで…と、雅紀は続ける。
「桜川は何読んでるの?…この本、英語で書かれてるみたいだけど。桜川、英語苦手だったよね?」
ギクッとヒトミは身体を強ばらせるが、それを気に留める様子もなく、雅紀はヒトミの後ろから本を覗きこんだ。
「へえ、懐かしいな。子どもの頃に読んだことあるよ、この本」
「そうなんだ。ええと、あの、ちょっと英語をしっかり勉強してみたいなーって思って。それでね、神城先輩におススメの本を教えてもらったの」
「ふーん…。そうなんだ」
「う、うん…」

目の前の二人のやり取りを眺めながら、綾人は雅紀の様子がいつもと違うことに疑問を抱いた。当の雅紀は評判の爽やかな笑顔そのものだが、彼の身に纏う雰囲気がどこか冷たく感じる。これは何なのだろう。
「じゃあ、今は神城先輩に教えてもらってたんだ?」
「うん、そうなの。読んでてわからない所があって…」
「……でもさ。英語だったらオレに聞いても良いんじゃない?本だって言ってくれれば、オレも持ってるから貸すしさ」
「え、でも…。いつも華原君に教えてもらってばかりだし、それは何だか申し訳ないし…」
「…だから神城先輩に?」
少しずつ雅紀の声に不機嫌な色が混ざり始める。それはヒトミも同じく感じて取っているようで、ぎこちなく笑顔を浮かべていた表情も、だんだん不安気なものへと変わっていった。
「う、うん…。華原君だって、毎回私に教えてばかりじゃイヤでしょう?」
「…オレ、そんなこと言ったことある?」
「え?それは…ないけど…」

ああ、なるほど。そういうことか。
雅紀が不機嫌になった理由に辿り着いた綾人は、それと気付かれないよう、一人苦笑いを浮かべた。
意外と彼もわかりやすいんだな。
しかし、当のヒトミは気付かないまま、オロオロとしながら答えていた。
「でも、修学旅行の時もたくさん迷惑かけたし…。やっぱり、華原君に頼ってばかりじゃいけないし…」
「……そう。まあ、桜川が神城先輩の方が良いってんなら別に良いけど」
「え?」
「…あ、オレも資料探さないと。邪魔してゴメンな」
「華原君っ、あの…」
ヒトミの声にも振り返らず、雅紀はスタスタと奥の本棚へと向かって立ち去った。
その後ろ姿を、ヒトミは途方に暮れた顔で見つめ続ける。
「大丈夫だよ、ヒトミちゃん」
優しく彼女の肩に手を置くと、元気付けるように微笑みかけた。
「神城先輩…」
「ここは僕に任せて。…ね?」

立ち去って行った本棚の方へ赴くと、課題の資料なのだろう、本を何冊か手に取る雅紀の姿があった。
「華原君」
「…神城先輩」
声を掛けると、向けられた表情は雅紀らしくない憮然としたもので、彼もこんな表情をするのか、と綾人は意外に思った。
雅紀だって人間だ。不愉快に思うことだってあるし、怒ることもあるだろう。それはごく自然で当然のことと理解はしているものの、常に誰にでも友好的で優しいと、周囲から評価される雅紀のこんな表情を、綾人は初めて見た。
「桜川を見てあげなくて良いんですか?」
「うん。華原君に用事があったからね」
「オレに?」
「華原君。単刀直入に言うと、僕とヒトミちゃんは、華原君が心配しているようなことは何もないから、安心して?」
「は?」
思いがけない言葉に、雅紀は手にしていた本を落としかけ、慌てて拾い上げる。
「それって、どういう意味です?」
「あれ?てっきり、僕とヒトミちゃんが仲良くしていたのが気に障ったのかと思ったんだけど…違ったかな?」
「なっ…!そんなわけないじゃないですか!」
「そう?なら良いんだけど。ヒトミちゃんが落ち込んでいたから、解ける誤解なら解いた方が良いかと思って」
「………」
『ヒトミが落ち込んでいた』という言葉に、雅紀はピクリと反応し、バツの悪そうな表情を浮かべた。
「…それにしても、可愛いよね。ヒトミちゃんって」
「え?…あ、まあ…ダイエットして随分変わりましたよね」
「それもあるけど、ヒトミちゃんがあんなに英語を頑張っている理由はね。華原君らしいよ」
「オレ?」
「そう。華原君、英語得意でしょう?」


―――それは先週のこと。
マンションの前で買い物帰りのヒトミと鉢合わせをし、最近読んだ本の話から始まった雑談から、「洋書を読みたいが何を読めば良いのかわからない」とヒトミが悩みを打ち明けた。それならば、と自室からヒトミでも読みやすい本をいくつか選び、彼女に手渡したのだ。
「神城先輩、ありがとうございます!」
「でも、ヒトミちゃんが洋書を読みたいなんて珍しいね。どうして?」
「え?あ…その……」
その問いに、急にヒトミはたじろぎ口ごもった。何の気なしに聞いたのだが、もしかして聞いてはいけなかっただろうか。
「あ、ごめんね。言いたくないなら無理に言わなくて良いよ」
「いえ、そういうわけでは…。ただ、その…ちょっと動機が不純と言いますか…」
「不純?」
「…あの、呆れないで下さいね?」
もちろん、と頷くと、ヒトミはそっと耳打ちをした。
「華原君…なんです」
「…華原君?」
コクンと、ヒトミは気恥ずかしそうに頷いた。
「華原君、アメリカに住んでいたことがあって、英語が得意なんです。日本語より英語の方がわかりやすいって言ってたこともあるし。前に華原君の部屋に遊びに行った時も、英語の本が何冊かあって」
もじもじと顔を赤らめながら、話し続ける。
「それで、私もちょっとでも英語がわかるようになって、同じ本を読めるようになったら、華原君ともっと仲良くなれるかなーって。でも、華原君に知られるのはちょっと恥ずかしいし…」
そう言ってはにかむように笑うヒトミの姿は、とても可愛らしかった。その表情から、彼のことが好きなのだとよく分かる程。
そして、相手のために小さな努力を重ねる姿はいじらしく、綾人は微笑ましく思った。


「だから、もっと華原君と仲良くなりたいからって、頑張ってるんだって」
「桜川が……」
「可愛いよね、本当に」
「……」
雅紀は何かを考えるように俯いた。表情は見えないが、耳が僅かに赤味を帯びているのがわかる。
「…あ、そろそろ戻らないと、ヒトミちゃんが心配しちゃうかな。ごめんね、邪魔しちゃって」
「あ、いえ…」
「あ、それと。僕が話したこと、ヒトミちゃんには内緒にしてね?」
「はい。…でも、何でそんな話をオレに?」
「そうだな。…やっぱり、ヒトミちゃんには笑っていてほしいからかな」
彼女と知り合ってから、もうすぐ一年。
屈託のない純粋な笑顔とひたむきさは、出会った頃から変わらない。共に過ごす内、その笑顔と明るさに、気付けばいつも力をもらっていた。
「だから、あんな悲しそうな顔は、できることなら見たくないんだ」
「……何だかそれ、桜川のことが好きみたいに聞こえますけど」
「もちろん、ヒトミちゃんのことは好きだよ。でも、華原君のヒトミちゃんに対するそれとは違うから」
その言葉に、雅紀はハッと驚いたように目を瞠った。その反応に、綾人は優しく笑い返す。
そう。この穏やかで春のように暖かい感情は、純粋に彼女の笑顔を願うものだ。好意と言えばそうなのだろう。しかし、雅紀のヒトミに向けるものとは異なる。
自分にとって彼女は、とても大切な友人の一人だ。
「それじゃあ、ゆっくりしていってね」
「…あ――」
雅紀の言葉を待たず、じゃあね、と小さく手を振ると、綾人はヒトミの待つ閲覧席へと戻った。

「あ、神城先輩。…華原君、やっぱり怒ってました?」
ヒトミが心配そうな表情を浮かべていた。
「ううん、全然」
「ほ、本当ですか?でも、何か不機嫌そうだったし…」
「うん。僕もそう思ったんだけど、気のせいだったみたい。全然怒ってなかったよ」
そう言うと、ヒトミはやっと安心したように表情を和らげた。
「良かったぁ…。私、また知らない内に華原君の気に障ること言っちゃったのかと…」
「ううん。そんなことないよ」
寧ろ彼が気に障ったことと言うならば、自分の方だろうし…と、心の中で呟く。
「…あ、もうこんな時間だ。用事があるからそろそろ帰らないと。ヒトミちゃんはもう少しここにいる?」
「はい。もう少し頑張ろうかなって。…すみません、神城先輩も読書をしに来たのに、私のせいであまり出来なくて…」
「そんなことないよ。それに、今日は君のお陰で面白いものも見ることができたし」
「面白い…?」
何かあったっけ?とヒトミは考えを巡らすが、まるで思い付かない。綾人はそれに答えず、ただニコリと微笑むだけだった。
「だから気にしないでね。その本、読み終わったらまた感想を聞かせてくれたら嬉しいな」
「はい、もちろん!ありがとうございます」
「じゃあ、またね。ヒトミちゃん」
「はい、また」
小さく手を振り合いながら、静かに図書室を後にする。
窓の外へと目を向けると、沈みかけた夕焼けが空を赤く染めていた。
今日の夕焼け空はまた一段と綺麗だと、しばらくの間、綾人はぼんやりと眺めていた。



「…あれ?桜川、神城先輩は?」
本を選び終わって戻ってみれば、そこに綾人の姿はなく、ヒトミが一人で座っていた。
「あ、神城先輩は用事があるからって、さっき帰ったんだ」
「ふーん…。じゃあ、ここの席座っても大丈夫?」
「うん、もちろん」
ヒトミが頷くと、雅紀は少し前まで綾人が座っていた席に腰を下ろした。
「…あのね、華原君」
「ん?」
「その…実は、ちょっとわからない所があって…。教えてもらっても、良いかな?」
先程のこともあってか、それとも申し訳ないという気持ちからか、ヒトミはやけに遠慮がちに尋ねてきた。その表情は、若干不安の色が滲み出ている。
本当にわかりやすいな、と思いながら、少しでもヒトミを安心させるよう、優しく微笑んだ。
「ああ、もちろん」
教えるために、ヒトミの方へ少しだけ身を乗り出す。

「…桜川はさ。もっとオレを頼ってくれて良いよ。遠慮なんていらないからさ」
「……本当に?」
「本当に。頼ってもらえた方がオレとしても嬉しいし」
「嬉しい?…って、それも何か変じゃない?」
「そうかな?でも、そう思うのは、桜川だけだから」
その言葉を冗談として受け取ったのか、ヒトミはクスクスと小さく笑った。
「ふふ、でもそう言ってくれて嬉しいよ。ありがとう、華原君」
さっきまでの不安気な色は消え、ふわりと笑顔を向けるヒトミに、雅紀は胸が満たされるような感覚を覚えた。
少し前まで、あんなにムカムカとした感情を燻らせていたのが嘘のようだ。
いつから自分は、こんなに彼女のことで一喜一憂するようになっていたのだろうか。心の中で苦笑する。

『それじゃあ、ゆっくりしていってね』
ふと、先ほど綾人から言われた言葉を思い出す。
用事があるからと言って帰ったのは、もしかして自分のために――…?
「?…華原君?どうかした?」
「いや、何でも。それより、どこがわからないの?」
「あ、うん。えっとね…」
……明日、お礼を言っておかないといけないな。
そんなことを考えながら、雅紀はゆっくりとヒトミの言葉に耳を傾けるのだった。
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