手のひらにキス

その意味を、彼は知っているだろうか。

日曜日。ヒトミは来たる受験に向けて、雅紀と一緒に彼の部屋で受験勉強に励んでいた。
付き合い始めて約半年。休日はどちらかの部屋で一緒に勉強をするのがすっかり習慣となった。
恋人らしく街中でデート、と中々いかないのが受験生の悲しい所だが、それでも大好きな人と一緒の時間を過ごせるは嬉しい、とヒトミは思う。

「桜川。そろそろ休憩にしない?」
「うん、そうだね。勉強もだいぶ進んだし」
勉強を切り上げて、雅紀の淹れてくれた紅茶と、ヒトミの持参したクッキーを楽しみながらゆっくり寛ぐ。
「お、このクッキーおいしいな」
「でしょ?この前問屋さんに行ったら新商品だっておススメしてくれたんだ」
クッキーは低カロリーで甘さが控えめだが充分おいしく、最近のヒトミのお気に入りだ。
受験勉強という名目はあるものの、こうやってのんびり二人きりの時間を楽しむのも、立派なデートではないだろうか。
…それに、雅紀とキスをしたり、抱きしめられたり、恋人らしいスキンシップだってそれなりにあるし。

(そういえば、今日はキス、まだしてないな…)
いつもだったら、勉強中だってどこだって、してくるのに。それも、不意打ちに。
何で急にするんだって言うと、「だって、したくなったんだからしょうがないだろ?」と笑顔で言われてしまうから、それ以上何も言えなくなってしまうのだ。
来週から校内模試。受験だってもうすぐだ。今まで以上に勉強に集中しないといけないのだから、キスだの何だのは二の次だ。それはわかっている。
でも、それはそれで何だか少し寂しい気もして。
(…って、何考えてるの!私ったら)
「ん?桜川、どうしたの?顔赤いけど」
「なっ、何でもないっ!」
慌てて首を振って、落ち着くために紅茶を一口流し込む。
まさか「キスしてほしいなぁ」って考えてましたなんて、恥ずかしくて言えるわけがない。
「何だ、キスしてほしいって言うのかと思ったのに」
「そっ、そんなわけ…っ!」
「ふーん?」
「ほっ、ほら!勉強の続きをしないとっ」
慌てて参考書を広げるヒトミを眺めながら、雅紀はクスクスと笑みを浮かべる。何だか自分の思考が見透かされているような気がして、ぷい、と顔を逸らしてしまう。
…こういう所が自分の可愛くない所なのだろう。
多分、雅紀としてはたまには素直に甘えてきてほしいのだろう。それは何となくわかっているし、そうしたいと思っている。
けれど、どうしても恥ずかしさが先に来て、いつも出来ずに終わってしまうのだ。

(でも…たまには、私からだって伝えたいよね…)
かと言って、雅紀のようにするのはまだ無理だ。
そこまで考えて、ふとあることを思い出した。
少し恥ずかしいが、これくらいなら自分からでも出来る気がする。それに、彼がどんな反応をするのか興味がある。
そう思いつくと、参考書を閉じて、ヒトミは雅紀に声をかけた。
「ねえ、華原君。ちょっと手、貸して?」
「ん?何だよ、急に」
「うん、ちょっと…ね」
「ふーん?」
訝しげに少し首を傾げた後、まあ、いっか、と雅紀はヒトミの前に右手を差し出した。
その手をそっと両手で握る。自分よりも大きい手のひら、すらっと伸びる長い指。骨張っていて、男の子の手だなぁ、と見惚れると同時に、いつもこの手が自分に触れているのだ、と思うときゅっと胸が熱くなった。

「…なあ。そんなにジッと見られると照れるんだけど……そんなに面白い?オレの手」
「あ、ううん。その、華原君の手、おっきいなーって」
「そりゃあ、男だし。…桜川の手は小さいよな」
「そうかな?普通だと思うけど」
「オレから見れば全然小さいって。指も細いしさ」
可愛いよな、と微笑みながら、自分の手を優しく握り返してくれる。それが無性に嬉しくて、胸がいっぱいになる。
自然とそこへ誘われるように、ヒトミは雅紀の手のひらに、そっと自分の唇を寄せた。
唇に彼の体温を感じて、愛しさで満たされていく。

「……っ」
小さく雅紀が息を飲む音が聞こえた。
驚かせただろうか。顔に熱が集中して、今、まともに雅紀の顔を見られる気がしない。
かと言って、このままでいるわけにもいかない。
そっと雅紀の手から唇を離し、ゆっくり顔を上げると、驚いたように目を見開く雅紀と目が合った。
その顔は若干赤みを帯びていて、ヒトミは自分の思惑が成功したことを確信する。
「…何?急に」
「えっと…キ、キス…だったんだけど…」
「だから、何で手なんだよ?」
「な、なんとなく?なんて…」
「……」
ジトリ、と見る目が「本当に?」と訴えかける。その視線が痛くて、ヒトミは「うぅ…」と小さく唸った。
「…こ、この前、梨恵ちゃんから話を聞いて……」
それは昼休憩中、いつものように、梨恵と優と食事を取りながら話に花を咲かせていた時のことだ。
梨恵がこの前雑誌で読んだんだけど…と話題にあげたのが始まりで、それはヒトミも興味の引かれるものだった。
何でも、キスにはする場所によって意味が違うらしい。
例えば髪の毛は「思慕」、頬なら「親愛」、唇は「愛情」等々。

「ふーん…で?手のひらはどんな意味になるの?」
「え、えっと…それは…」
ダメだ。いざとなると恥ずかしくて言えそうにない。
「何だよ。言えない意味なわけ?」
「そんなことはない…けど」
「……桜川」
言い淀んでいると、不意に雅紀に手を取られた。
彼の大きな手の中に、ヒトミの手はすっぽりと収まってしまう。その手から伝わる熱に、ただでさえ赤い顔が更に熱を帯びていくような気がした。
「…桜川。ほら、言ってみなって」
声色は優しいが、悪戯っぽく微笑むその表情に、いつの間にか雅紀のペースに乗せられていることに気付く。それが何だか悔しい。
「…うぅ…」
「そんなに恥ずかしがること?」
クスクスと笑いながら、雅紀はゆっくりヒトミの手を自身の口元へ寄せていき、さっきヒトミがそうしたように、口付けた。
「……っ!」
雅紀の唇は、ヒトミの手のひらからゆっくり手首へと辿っていく。その動きが何だか艶っぽくて、心臓がドキドキと大きく脈を打つ。
「ほら、桜川」
手のひら越しにこちらを見つめてくる雅紀の視線が妙に熱っぽいのは気のせいだろうか?
(もう無理…!心臓が持たない…っ)
きっとヒトミが答えるまで、このまま雅紀は離さないだろう。
観念して、ヒトミは小さな声で答えた。

「こ…懇願、とか求愛の意味があるって…聞いて…」
いつも照れて恥ずかしがって、中々伝えられていないから。
だから、少しでも伝えたくて、伝われるように、と。
キスの意味に自分の気持ちを込めたのだ。
雅紀が自分のことを想ってくれているのに負けないくらい、自分も雅紀のことが、大好きで仕方ないのだと。
「……。ふーん。なるほど。そっか」
そう目を細めながら呟くと、雅紀は徐に立ち上がり、ヒトミの横へと座る。そしてそのまま、彼女の細い腰に手を回して抱きしめた。
「華原君!?」
「本当に桜川って、こっちが驚くようなことばっかりするよな」
「え…」
雅紀の表情が見えなくて、一旦離れようと動いてみるが、雅紀の腕の力に敵うはずもなく。
「…テストも近いし、しばらく我慢しようって思ってたのに、桜川が急にこんな可愛いことを仕掛けてくるからさ。我慢できなくなっちゃうじゃん」

…え?ええ?
一体何が起こっているのだろう。
気付けばどさりと床に押し倒され、上に雅紀が覆いかぶさっていた。
倒れた先に丁度クッションがあったのは偶然なのだろうか?そんな考えも一瞬で、近すぎる雅紀との距離に吹き飛んでしまう。
鳴り響く心臓の音がうるさくて、雅紀にも聞こえてしまうのではないかと思ってしまう。
「…か、華原君?これは……」
戸惑うヒトミを前に、雅紀は微笑みながらそっと彼女の頬に手を添える。その優しくて甘い微笑みは、ヒトミにだけ向けられるものだ。それが余計に、ヒトミの心臓を高鳴らせていく。
「なあ、桜川。唇のキスの意味は何て言ったっけ?」
「え?えっと…あ、『愛情』?……んっ…」
そう答えるなり、急に降ってきたキスに、ヒトミは小さく身を震わせた。
触れるだけのキスからだんだん深くなっていくそれに、ヒトミの思考は奪われていく。

「…は、…華原君…っ」
「ん…」
苦しいと言いたげに彼のシャツを掴めば、雅紀は名残惜しそうにゆっくりと離れていった。
ゆっくり息を整えて起き上がると、ジッと雅紀を睨みつける。
「華原君!もう、何でいつも急に…!心臓が持たないよ…っ」
「仕方ないだろ?桜川が可愛すぎるのが悪いんだって」
ケロッと悪びれもなく言う雅紀に、小さく「…バカ」と言うのが精いっぱいだった。
「それとも…イヤだった?」
「…そんなわけないじゃない」
恋人からのキスがイヤなわけがない。それに、言えないだけでずっとしたいと思っていた。それなのに聞くなんてズルい、と思うけれど、こういう所も嫌いじゃなくて、寧ろ愛しいと思うのだから、ほとほと重症なのかもしれない。

「それにさ。手にキスするのも悪くないけど、やっぱりこっちの方が良いよな」
そう微笑むと、雅紀は再びヒトミに触れるだけのキスをした。
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