気になる本音 後編

校舎の二階にある、今は使用されていない会議室。
きっと雅紀はここにいる。
緊張で早く脈打つ心臓を抑え込み、大きく深呼吸をすると、ヒトミはそっと扉を開いた。
「華原君。…いる?」
「……桜川?」
思った通り、そこには雅紀の姿があった。
窓から照らされる夕焼け越しの彼は、いつもと少し違って見えて、思わずドキッと胸が高鳴った。
「良かった。やっぱりここにいたんだね。こんな時間までここにいたの?」
「桜川こそ。こんな時間までどうしたんだよ」
「どうしたって…。華原君を探してたんだよ」
他にどんな理由があって、こんな場所まで自分が来ると言うのか。
彼のことだ、きっとわかっててわざと聞いているに違いない。
わかってるくせに、と小さく頬を膨らませると、雅紀はクスクスと笑いだした。
「いや、わからないって」
「嘘。わからないって顔してないもん」
「そう?…にしても、そんなほっぺ膨らませてさ。たまに子どもみたいだよな、桜川って」
「そ、そんなことないよ!」
慌てて否定すると、「ほら、そういう所」と指摘され、ぐうの音も出なくなる。
何がそんなに可笑しいのか、しばらく雅紀は笑い続けた。
しかし、こっちは全然面白くない。ジトリと恨めし気に睨んでいると、彼の口から思わぬ言葉が飛び出てきた。
「本当、可愛いよな。桜川って」
「…!」
カッと一瞬で顔が熱くなるのがわかる。
今、彼は何と言ったのかわかっているのだろうか。
(…もしかしてまたからかわれてる?)
うん、きっとそうだ。いつだって、振り回されるのは自分の方。
優しいかと思えば意地悪で、そうかと思えばやっぱり優しくて。いつも雅紀の言葉、態度に一喜一憂させられる。
でもそんな風に振り回されるのは不思議と嫌ではなくて、それが何だか悔しい。

「華原君っ!もう、いつまで笑ってるの!?」
「ははっ、ごめんごめん。いや、でも本当に桜川が来るとは思わなくてさ。それが何かおかしくて」
ひとしきり笑って満足すると、雅紀はヒトミに向き直った。
「…それで、桜川はオレに何の用?」
「え?えーっと…その……」
ほら、チョコを持ってきたって言うのよ、ヒトミ!心の中の自分がそう叫ぶ。
わかってる。わかってる……んだけど。
さっきまでの意気込みはどこへ行ってしまったのだろう。
伝えたいと思っていた言葉達は、口の中で留まって、全然出てきてくれない。
俯いたまま黙っていると、雅紀の方から口を開いた。
「……もしかして、チョコレートを渡しに来てくれたとか?」
「…!!」
バッと顔を上げると、目の前の相手は「当たり?」と言うようにニッと笑っていた。
「あ、あはは。うん、そうだよ。今日はバレンタインだし…ね」
何とか平静を装おうとするが、声が上擦ってしまっているのが自分でもわかる。
チョコレートを鞄から取り出そうとすると、自分の逸る気持ちを表すように、指がもたついて中々取り出せない。余計に心は焦っていく。
やっとチョコレートを取り出して、ヒトミはおずおずと両手で雅紀へと差し出した。
「華原君、今日はたくさん貰っただろうからいらないかもしれないけど…。良かったら、貰ってくれる…?」
「―――……」
「………」
しかし雅紀は、ジッとチョコレートを見つめたまま、動こうとしない。
(…華原君……?)
そんな雅紀の様子に、だんだん不安が募っていく。
やっぱり迷惑?……もしかして、私が傷付かないように断るにはどうすれば良いか考えているとか?
イヤな予想が頭の中をぐるぐると駆け巡る。
こんな時間が続くなら、いっそスパッと断られた方がマシかもしれないとさえ思えてくる。続く沈黙に耐えかねて、ヒトミがチョコレートを持つ手を引っ込めようとした時。雅紀から思わぬ一言を投げかけられた。

「…なあ、これって、義理?」
「……え?」
思わず、マヌケな声で返してしまう。
「だから、これって義理チョコ?」
「え…と……」
…何でそんなことを聞くのだろう。
また自分をからかおうとしてる?でも、雅紀の表情はいつになく真面目な表情で、それが余計にヒトミの心を惑わせた。
(ど、どうしよう…)
義理か、否か。
そんなの答えは決まっている。……決まっているけれど。
確かに、雅紀にきちんと自分の気持ちを伝えたいと思っていた。
しかし、こんな風に聞かれるなんて思っていなかったから、何と言えばいいのかわからなくて、ヒトミは混乱する。
「え、ええと…。それは…その……」
雅紀は何でこんなことを聞くのか、彼の真意がわからない。
(あ、義理だったら受け取るよってこと?いや…それって結構ショックだな)
言葉に詰まらせていると、今度は別の問いをかけられた。
「じゃあ、昼間に木野村にあげてたのは?あれは本命?」
「えっ!?」
これまた思わぬ質問に、ヒトミは驚きの声を上げる。
「な、み、見てたの!?」
「廊下で楽しそうにしてたらイヤでも目に入るだろ?…で、どうなの?」
雅紀の声が若干不機嫌な色を帯びた気がするのは気のせいだろうか。
さっきから何でそんなことを聞くの?とは何だか言い辛く、大人しく素直に答えることにする。
「ち、違うよ。透君は幼馴染みだし…それに、お兄ちゃんやマンションの皆にだって同じのあげてるし…」
「じゃあ、これも同じ?木野村にあげてたやつとは違う気がするけど」
雅紀の長い指が手にしているチョコレートを指さし、ビクッと身体が小さく震える。

どうしよう。何と言えば良い?
確かに、他の皆にあげたチョコと、雅紀へあげるチョコの意味は異なる。
…もしかして、雅紀も自分と同じ気持ちでいてくれているのだろうか?そんな淡い期待が一瞬脳内を掠めた。
(いやいや、それはない、それはない。華原君に限ってそんな…)
どうしよう、どうしよう。
思考はぐるぐると回り、心臓はドキドキして、もう何が何だかわからなくなってきた。
―――正直に言えば良いんじゃない?今更ここで怖気づくなんて私らしくもない。
頭の中で、自分の声がそう囁きかけた気がした。
「……」
次に、頑張れと言ってくれた二人の親友の姿が思い浮かぶ。
(…そうだよね。もともと当たって砕けろって思ってここまで来たんじゃない。ダメでも、ちゃんと華原君に伝えようって)
バレンタインデーは、普段出せない勇気を後押ししてくれる。きっとそんな日なのではないだろうか。
ヒトミは小さく決心すると、恐る恐る口を開いた。


******


『このチョコは義理?』という自分の問いに、ヒトミが言葉を詰まらせてから、どのくらい時間が経っただろう。
まだ何分も経っていないはずだが、随分長い時間が経過したように感じる。
俯いている彼女を前に、雅紀は彼女に気付かれないよう小さくため息を吐いた。
(…何でこんなこと聞いてるんだろう、オレ)
目の前の彼女から差し出された両手には、自分へと用意してくれたチョコレート。

放課後、この会議室へ来たのは、自分を追いかけて来る女子達から逃げるためだった。
しかし、ヒトミがここへ来てくれるかもしれない、という期待がなかったと言えば嘘になる。一人になりたい時に訪れるこの場所は、ヒトミにしか教えていない。
そして期待通り、ヒトミはわざわざ自分を探しにここまで来て、チョコレートを持ってきてくれた。
それだけで十分嬉しかったはずなのに、昼間のヒトミと透の姿が頭を過り、気付けば例の質問をしてしまっていた。
彼女の気持ちがどうしても知りたくて。自分と同じ気持ちであったら、と僅かに期待して。
(こんなことを聞いても、桜川が困るだけなのに)
困ったように顔を俯かせる彼女を前に、じわじわと罪悪感が胸の中に広がっていく。
やっぱり「ごめん、からかっただよ」と謝って終わらせよう。
そう思って口を開きかけると、静かな部屋にヒトミの声が小さく響いた。

「―――……る?」
その声はあまりにも小さくて、何と言ったのかは聞き取れなかった。
「……え?」
「だから、その…。義理じゃないんだけど…それでも、受け取ってくれる…?」
真っ直ぐ自分を見上げてきたヒトミの顔は、耳まで赤く染まり、大きな瞳は僅かに潤んでいた。
「………っ」
ドクン、と心臓が大きく脈打つ。
「ダメならダメってはっきり言って。すぐには無理かもしれないけど、諦めるから。華原君に迷惑かけたくないし――」
「迷惑じゃないよ」
「…え……?」
雅紀によって遮られた言葉に、ヒトミは目を丸くさせる。
「迷惑だなんて、オレ言った?」
雅紀の言葉に戸惑うヒトミの手から、ひょい、とチョコレートを取り上げる。
「あ……」
「これ、サンキュ」
目の前の彼女は何が起こったのかよくわからない様子で、目を瞬かせながら雅紀を見つめていた。
「食べても良い?」
「う、うん。もちろん」
器用な手つきでラッピングを取り、蓋を開けると、箱の中から五つの小さなハート型のチョコレートが顔を覗かせた。
「もしかして手作り?」
「うん。華原君の口に合えば良いんだけど…」
「ふーん…」
そのまましばらくチョコを眺めた後、一つを手に取り口へ運ぶ。ふわりと優しいチョコの甘さが口に広がり、ゆっくりと溶けていく。
「…うまい」
「ほ、本当?甘すぎたりしない?」
「本当。甘さも丁度良い。今まで食べたチョコ中で一番うまいよ」
その言葉に、「何それ」とヒトミはクスクスと笑う。渡せてホッとしたのか、その表情からは先程までの緊張の色は消えていた。
「良いよ、お世辞なんて。そう言ってもらえるのはとても嬉しいけど」
「お世辞じゃないって。…桜川が作ったんだからさ、何だってうまいに決まってるだろ?」
「え?」
雅紀の言葉に、ヒトミはキョトンとして見つめる。その目は「どういう意味?」と問いかけていた。
「…わからない?」
ニッと笑うと、自分が何か企んでると思ったのだろう。ギクリ、とヒトミの表情が強張るのがわかった。
そして一歩、ヒトミの方へを歩みを進めると、それに合わせて彼女も一歩後ずさる。
更に一歩近づくと、また一歩後ろへ。
そのまま壁際へ追い詰めるように、ゆっくりとヒトミへと近づいていく。
背中に壁が当たり、「あ…」と、ヒトミが気付いた時には既に遅く。背中には壁、目の前には雅紀が立っている。
これ以上逃げられないことに気付くと、ヒトミは困ったように雅紀を見つめた。
紅潮した頬と、涙ぐんだ瞳で懇願するように見上げる様は、雅紀の加虐心に火を付ける。
「か、華原君。あのあの、これはどういう…っ」
「…なあ。桜川は、オレのこと好きなんだよな?」
「え!?あ…う……」
問いかけると、恥ずかしそうにヒトミは俯いた。
さっき、このチョコは義理ではないと言っていた。だから、答えは一つしかない。
自分でも意地悪だな、と思うけど、ヒトミの口からもう一度答えを聞きたいという欲求の方が勝っていた。

「…うん。華原君が好き…だよ」
小さな声で答えるヒトミの言葉を聞いた瞬間、頭で理解するよりも早く、雅紀はヒトミを引き寄せて、強く抱きしめてた。
腕に納まるその身体は思った以上に細くて柔らかく、心臓が大きく高鳴る。
「か、かか、華原君っ!?」
突然雅紀に抱きしめられたヒトミは慌てふためき、何とか抜け出そうと身体を動かすが、男女の力の差は歴然で、雅紀の腕はビクともしない。
もぞもぞと身じろぎをするヒトミに構わず抱きしめながら、雅紀はポツリと小さく言葉を零した。
「……オレさ。今日ずっと、桜川からのチョコが欲しかったんだ」
「え…?」
その言葉に、腕の中のヒトミの動きが止まる。
「こんな風に思うのはオレらしくない、関係ないって気にしないようにしてたのに…。桜川が木野村にチョコを渡してるのを見たら、余計気になって。ここに桜川が来てくれたら良いなって待ってさ」
少し腕の力を緩めると、ヒトミが縋るように雅紀を見上げてきた。
「…だから、桜川がここに来た時、すごく嬉しかった」
その瞳に応えるように、優しく彼女を見つめ返す。
「オレの言ってる意味、わかる?」
「……あの、えっと…その…」
自分を見つめる大きな瞳が「期待して良いの?」と訴えかける。それに吸い寄せられるように、雅紀はヒトミの額にそっと唇を寄せた。
「…っ!え!?な、な、華原君っ、何を…っ!?」
「何って、キスだけど?」
おでこにだけどね、と悪戯っぽく笑うと、ヒトミは口をパクパクとさせながら、言葉にならない声をあげている。
「言っとくけど、好きでもない子にこういうことしないからな?」
そう言うと、ヒトミの赤かった顔は、更に紅潮していく。
「ほ、ほほ、本当に!?またからかってるんじゃ…っ!」
「本当だって。流石のオレもこんな嘘は吐かないよ」
それでも納得できないのか、疑わしげに自分を見るヒトミに、そんなに自分は信用できないだろうか、と少し苦笑する。
(まあ、無理もないか)
去年の卒業式にあんな形で本当の自分を教えて。
それでも自分と真っ直ぐ向き合うヒトミに、ことあるごとにからかったり、時に意地悪なことも言ったりした。
ヒトミに構いたくて、自分から目を逸らしてほしくなくて。
さっきヒトミのことを子どもみたいだと笑ったが、自分も人のことを言えないよな、と彼女に気付かれないようクスリと笑った。

「…じゃあ、こうすれば本当だって信じる?」
「え?」
ヒトミの顎に手を添えると、クイ、と少し上に向かせる。
そのまま顔を近づけていくと、これから何をするのか察したヒトミは、途端に慌てだした。
「か、華原君っ!ちょちょ、ちょっと待って…!」
「桜川はオレの気持ちを疑ってるんだろ?だから本当だって証明しようと思ってさ」
「だ、だからってこんな…!きょ、今日の華原君は何か変だよ、どうしてこんな急に…っ」
「……イヤ?」
「……っ」
黙ってしまうヒトミに、クスリと笑いが込み上げる。
本当に彼女は正直でわかりやすい。そして、「イヤだ」と言えないのがわかっていて、そう聞く自分はやっぱり意地悪だよな、と思う。
更に顔を寄せると、逃げられないと観念したのか、ヒトミはぎゅっと固く目を瞑った。
そんなヒトミをそのまま至近距離でしばらく見つめた後、雅紀はゆっくりとヒトミから離れた。
「…………」
いつまで経っても予想された感触が来ないため、不思議そうにヒトミはそっと目を開けた。
「華原君…?」
「やっぱりやめとくよ。桜川があんまり怯えてるからさ」
「お、怯えてなんか…っ」
「じゃあ、あのままキスして良かったんだ?」
「!!」
カッと顔を真っ赤にさせるヒトミの様子が可笑しくて、ついクスクスと笑いが零れた。
「もうっ、またからかって…!」
「ごめんごめん。桜川って、本当可愛いよな」
「そんなこと言ったって誤魔化されないんだからね!」
「だって本当にそう思ってるんだから、仕方ないじゃん」
徐にヒトミから貰ったチョコレートをもう一つ取り、口へ放り込む。
「ま、この続きは、これのお返しをする時にゆっくりするよ」
「へ…」
一瞬目を丸くした後、雅紀の言葉の意味を理解したヒトミは、先程までの勢いは消え、恥ずかしそうに俯いた。
「じゃ、そろそろ帰ろうぜ。結構遅くなったしさ」
窓の外を見ると、ヒトミが来た時には茜色に空を照らしていた夕焼けが、もうすぐ沈もうとしていた。

二人で校舎を出ると、ふと思いつき、雅紀はヒトミの右手を取って握りしめた。
「華原君っ!?」
「ん?何?」
「何って、その、て、手…っ」
「いいじゃん。これくらい。誰も見てないって」
この時間だ。ほとんどの生徒はもう帰っている。
自分とヒトミが付き合っていると知られれば、確かに少々面倒だろう。心配する彼女の気持ちもわかるが、例えそうなっても別に構わないと雅紀は思った。寧ろその方が話が早くて好都合かもしれない。
そんな雅紀の考えを露程も知らないヒトミは、少し不安そうな表情を浮かべる。
「そうかなぁ…」
しかし、握られた手を振り払おうとはしない。そんな彼女がとても愛しくてたまらない。
昼間、あんなに悶々と悩んでいたのが嘘のようだ。
ギュッと握り返してくれる自分よりも小さな手に、心が温かく満たされていくのを感じる。
(…バレンタインも悪くないかな)
あんなに鬱陶しいと思っていたのに、今はそんな風に思っているなんて、自分も現金だな、と小さく苦笑する。

「ホワイトデー、楽しみにしててよ」
「…!う、うん…」
ほんのりと顔を赤らめながら、こくん、とヒトミは頷いた。
それに満足したように、雅紀はヒトミに微笑みかける。
その表情はヒトミが今まで見た中で一番の、優しくて温かいものだった。

inserted by FC2 system